近くて遠い⑶
足は迷いなく化学準備室へ向かう。
どうしてなのか、皆川がそこにいると分かっていたから。
たった今、化学教師だと言う情報も頭に降って来た。その辺りは典型的な夢の仕様と同じらしい。
勢いよく開けた準備室のドアが、雷の落ちたような音が鳴った。長い脚を組んで座る皆川は、顔をくるりとこちらへ向けて僕を見る。
驚きもせず、冷静に、まるで来ることを予測していたような態度で。
「生徒会長、そんなに慌ててどうした?」
動じない落ち着きのある風格が気に入らなかった。
「あなた教師ですよね?」
「ははっ、俺が給食のおばちゃんに見えるか?」
「既婚者ですよね?」
「ああ、結婚して一年になるかなぁ」
「どういうつもりで、蓬に近付いてるんですか?」
「さあ、なんのことかな?」
とぼけた口調で笑う皆川に、唇を噛み締めて声を張り上げる。
「ふざけるなよ! どれだけ人を傷付けたら気が済むんだ。生徒に手を出すなんて、教師のする事じゃない」
自分でも驚くほど呼吸は荒ぶっていて、瞳孔が開いているのを感じた。
思えば生きてきた中で、誰かに怒りをぶつけたことは初めてかもしれない。
「お前に何が分かる。あの子は俺を必要としていて、俺もあの子を求めている。お互いに心の隙間を埋め合っているんだ。部外者のお前が割りいることじゃない」
「さっき美術室で泣いてたんだ。あれは、あんたに対しての涙だ。都合の良いこと言って、あんたは誰も幸せに出来てない」
僕は信じていた。自分は正しいことをしているのだと。悲しむ彼女のために、正義のヒーローになったつもりだったのかもしれない。
ただ、蓬の笑顔を摘む皆川が許せなくて、関係を絶たせたかった。その方が蓬にとっても良いことだと思っていたから。
「何してるの?」
気配のなかった背後から、鈴の音が鳴った。
兎のような目をした蓬が、少しずつこちらへ近付いて来る。
「蓬、これは……」
「先生に何言ったの? 余計なこと、しないでよ」
頭の中が真っ白になった。数分前は切なそうに涙を流していた彼女が、眉を吊り上げて唇をへの字に下げている。
今、瞳が潤んでいる原因は僕だ。
「そういう事だから、俺たちの邪魔しないでくれるかな。生徒会長くん?」
鼻で笑うような態度で僕の肩へ手を置く。眼鏡越しに見える流し目は、悔しいけど大人の色気を感じた。それも彼女が惹かれる理由のひとつなのだろうか。
皆川が去った化学準備室には、張り詰めた空気が漂い続けていた。立ち尽くす蓬の呼吸だけが小さく聞こえて。
「もし、先生に、嫌われたら、どうしてくれるの?」
つぶやくような言葉は
「蓬は……不倫、してるんだよ? 自分が何をしてるか、分かってるよね?」
「それでも良いの」
「そんな関係、幸せになれるはずない」
「この気持ち、梵くんには分からないよ。私がどう生きてきたかなんて何も知らないくせに。もう放っておいて」
涙まみれの顔で、僕の横を過ぎ去って行った。遠退いていく足音が耳に響いている。
言うつもりなんてなかった。
ずっと、笑っていて欲しかっただけなんだ。だけど僕のした事は、蓬にとって正義ではなかった。
目の前が水彩絵の具でぼやかすように滲み出し、様々な色が混ざり合う。徐々に視覚は鮮明になって、背景はくっきりとなる。
「それで、綺原は何の仮装するんだ? 魔女か、吸血鬼か?」
「どうしてモンスターばかりなの? ハロウィンパーティーみたいじゃない」
「黒マント絶対似合うだろ」
「じゃあ、苗木はスケルトンってとこかしら」
「おお、透明人間か? なんかかっこいいな! わくわくして来たぜ」
「……無知って幸せね」
いつもの綺原さんと苗木の掛け合いが耳を通過する。現実世界の教室へ意識が戻って来たのか。
黒板に並ぶ文字は、僕が書いたものだろうか。筆跡は明らかに自分のものだが、どれも記憶にない。
意味もなく指を握ってから開いてみる。何度か繰り返すけど、手の震えは止まらず。指先には白いチョークの粉が付いていた。
やはり身に覚えがない。
ふいに手を覆う優しい感触に襲われて顔を上げた。
「梵くん、寒いの? 手が震えてる」
綺原さんの言葉に、隣の苗木が「大丈夫か?」と眉を潜める。
「熱があるかもしれない。保健室に行った方がいいわ」
「いや、僕は平気……」
「いいから。黙って来て」
半ば強引に連れ出されて、彼女の後を追い掛けた。
繋がれたままの右手からは、柔らかな感触が広がっている。想像以上に小さな手で、僕が力を入れたら壊れてしまいそうだ。
「綺原さん、あの、ちゃんと行くから手……」
言いかけたところで、振り払うようにパッと離された手。告白してないのに、なんだか振られた気分だ。
思わず苦笑するけど、前を向いたままの彼女の耳が真っ赤になっているのを知って、僕も少しばかり気恥ずかしくなった。
保健室に養護教諭の姿はなく、ドアに『職員室にいます』の札がかけられていた。少し引くと鍵は開いているようで、促されて中へ入ると彼女はピシャリとドアを閉めた。
詰め寄るように前へ立つと、グイッと僕の顔を覗き込む。
水晶玉みたいな透き通った瞳は、心の中を吸い取るようにじっと見つめて。異様に距離が近くて、目を合わせていられなかった。
「ねえ、さっきの授業何したか覚えてる?」
「ええっ? ええっと……ゆめみ祭の、話し合い?」
黒板に書いてあった内容から、きっとそうだろう。
目の前に視線を戻すと、彼女から呆れの溜息が放たれる。
「私は記憶があるのか聞いてるの。梵くん、さっきまで夢の中にいたでしょ」
「どうして……分かるの?」
「だって黒板の前に立ってる時、目に光がなかったから。魂が抜けたような、なんて言うか〝抜け殻〟みたいだった」
「……抜け殻?」
夢を見ている間に、現実で自分がどんな行動を取っていたのか記憶はなかった。
綺原さんの話によると、僕は普通に歩いて教壇の前に立ち、ゆめみ祭の話し合いをして席に戻ったらしい。学園祭実行委員が欠席だったため、書記まで一人でやっていたと言うから驚きだ。
脳と体の意識が別のところにあって、いずれ幻想から戻れなくなる。この前話していたことに現実味が帯びてきたからか、やたらと体を心配する綺原さんに押され、少しだけ保健室で休むことになった。
オレンジのカーテンから出ようとする背中に、そっと向けて。
「……綺原さんの言う通り、関わらなければよかった」
「なにが?」
「……夢だよ。余計なことして、傷付けたかもしれない」
布を掴む手にぐっと力が入る。どうしたらいいのか分からなくて、気持ちをぶつける場所もない。
「夢を終わらせられるなら、そうした方がいいんじゃないかしら。その人のためにも、あなたのためにもね」
振り向きもしないまま、綺原さんは保健室を出て行った。
夢が終われば、蓬と会えなくなる。僕にその選択が出来るのか。
いや、無理だろう。そんな勇気もなければ、もとより夢世界の壊し方など知らない。
薄布の中で、何度もため息が
しばらく横になって、何もない空間を見つめていた。無心に、意味もなく。
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