近くて遠い⑵
今年も連休明けから、六月上旬の土曜日に開催される
毎年前日に前夜祭と、ゆめみ祭の夜には後夜祭が行われて、全てのイベントが生徒会執行部に一任されている。
前夜祭は仮装大会、後夜祭では花火の打ち上げが定番になっていて、それは今年も話し合いをしなくても分かっていることだった。
現に満場一致で決定した過去を知っていることもあり、僕としてはこの作業が無駄な時間に思えて仕方ない。
黒板の前に立ち、クラスメイトに確認の言葉を繰り返す。
早く終わらないかと面倒くさそうな表情、眠そうな目、隠れてスマホを触る人や隣と雑談する人。以前見た光景とさほど変わらない。
生徒会の冊子に目を向けて、一呼吸置く。
「では、今回の前夜祭も仮装……」
話をまとめようとした時、小さな声が上がった。
「あの、仮装大会なんて、どうかな?」
この人は今更何を言っているんだ? 話を聞いていないから、あたかも自分が提案したような発言が出来るんだ。
「それは今……」
視線を上げたとたんに、体は氷のように固まって動けなくなった。呼吸の仕方さえ危うくなる。
瞬きをするのが精一杯なのに、目の前にいる彼女を
「衣装も自分たちで用意して、コンテストにしたら面白いんじゃないかな!」
好奇心に溢れた瞳を輝かせるのは、髪をさらっとなびかせた蓬だった。
どうして、ここに?
周りに目を配ると、どれも知らない顔ばかりが並んでいる。また夢の中に入り込んでしまったのか。
「非日常を味わえて、楽しそうだな」「仮装なんて恥ずかしいよ」「結構盛り上がるかも」というような声が教室を飛び交っていく。
落ち着け、これは僕の見ている幻想だ。
「良いアイデアだと思うけど、どうなんだ? 生徒会長」
右から鼓膜を突き破るような嫌悪を抱く声がした。脚を組み椅子に座る皆川が、僕に話しかけている。
蓬に触れていた手で頬杖を付きながら、いかにも紳士そうな顔をして。
落ち着け、落ち着くんだ。
「生徒会に……持ち帰ります」
心を殺して平静に答えた言葉は、首を締められたような声をしていた。
空いていた席に着いてからも、しばらくは力の入った手のひらが開くことはなかった。
昼休みを迎えた。これまでにない長さの時間を夢の中で過ごしている。
ここには僕の席、名前の入った教科書、誰が作ったのか不明な弁当まである。どんな行動を取ったとしても、周りは気にすることなく当たり前の日常として流れていく。
夢とは不自然なことが当然のように起こる幻覚だと認識していたけど、僕の脳はきっと正常だ。初めからずっと違和感を抱いているのだから。
見たことのない弁当袋を手に下げて、廊下を歩く。同じ校舎でも、やはり
定まっていなかった視線が止まった。新聞やポスターに、七年前の日付が記載されている。どれも同じ年号。
体育館階段の壁画にあった年と一致していた。
「まさか、ほんとに実在する過去を見ているのか?」
綺原さんが未来を見ているのなら、僕が過去を見ていてもおかしくはない。
でも、この夢に存在しているのは今の僕だ。何の意味があって、僕は七年も前の過去にいるんだ?
美術室の前を通り過ぎた時、誰かのすすり泣く音が聞こえた。
少し開いたドアの向こう側には、顔を覆う蓬の姿があった。その向かい合わせに座っているのは、後ろ姿でも目を塞ぎたくなるほど分かる皆川だ。
見たくないはずなのに、息を潜めてその場に
「せっかく頑張って準備して来たのに、いきなり中止だなんてひどいよ。みんなに何て言ったらいいの?」
「仕方ないだろう。色付けが始まったら、露出が高くて想像と違ったと苦情が出たんだ。人魚に服を着せるならともかく、あの壁画は諦めるしかない」
「……でも」
体育館階段の壁画について揉めているようだ。
そういえば、結芽高の美術部卒業生が描いたと、日南先生が言ったのを思い出した。
「あの絵には、ありのままの自分を認めて欲しいって想いが込められてるの。人魚には、人魚の時にしか分からない心がある。それを十代の高校生に重ねてるの。大人にも理解して欲しい」
「それは分かるけど。一部の批判だからと言って、学校は受け流すことは出来ないんだ。高校生なら、それも分かるだろう?」
「……みんなで、頑張って来たのに」
泣き崩れた頬に、皆川の骨張った指が触れる。涙を拭いながら二人は唇を重ねていた。
吐き気がした。指輪をした指で彼女に触れている皆川も、恥じらいながら頬を染めて受け入れる蓬も。
その光景から目が離せなくて胸が焼けるように見ている自分自身も、全てに。
皆川が出て行ったあとでも、蓬はひとり美術室に残っていた。
あの泣き腫らした赤い目に加えて、教師と不純なキスをしたあとでは、教室へ戻り辛いだろう。
ポタ、ポタ。止まっていた雫が、彼女の瞳から湧き水のようにあふれては
急にどうしたんだ? もしかして、壁画の話を思い出して泣いているのか。
駆け寄りたい衝動を押し殺して、その横顔に見入っていると。
「……もう、優しくしないでよ」
蝶の羽音のような声が、彼女から聞こえた。伏し目がちに唇を震わせる姿は儚く切なげで、それでいて異常なほど綺麗に思えて、脳裏に焼き付いて離れない。
僕の中に眠っていた何かが、弾け飛んだ。
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