3. 近くて遠い
近くて遠い⑴
十日間の大型連休は、どこかへ出掛けることもなく塾の特訓授業で終わりを迎えた。
繰り返される毎日は少しずつ変化しているのに、勉強だけは店頭に並ぶ商品のようにどれもが
ピアノと書道を取り上げられて、歯科医師を目指す道だけが残された。時間が巻き戻されたことによって生じた代償なのか。
鍵で閉ざされたピアノルームが撤去されるのも、時間の問題だろう。
「僕は何を間違えた?」
どこから人生の歯車が狂いだしたのか。
産声をあげた瞬間には、もう決まっていたことなのか。
蓬を拒絶したあの日以来、夢を見なくなった。もう一度会いたいと願っても、電源を消したままの何もない空間を眺めているみたいに、彼女の姿を見ることは出来ない。
全てが僕の作り上げた幻想なら、いつになれば悪夢から目を覚ませるのだろう。
薄暗い雲が屋上の空を覆っている。連休中に晴天を使い果たしたのか、今にも雨が降り出しそうな顔だ。
虹色の雨が降るような気がして、僕はフェンスに腰を下ろしたまま待っている。
悪魔が
期待に満ちた心臓が振り返る先には、綺原さんの姿があった。
「なんだ……綺原さん。こんなところに来るなんて、どうしたの?」
軽やかなステップを踏むようにコンクリートへ飛び降りる。
心と体は、必ずしも一致するとは限らないらしい。
「あら、期待してた人物と違って悪かったわね。夢の彼女か、もしくは教師の誰かさんかと思った?」
綺原さんは、僕の心を見透かすようなふふっという笑みを浮かべる。上から見ているというより、何か優越を感じている時に彼女がよくする仕草だ。
「そんなんじゃないよ。ただ、最近夢を見なくなったんだ。これって、どういう意味だと思う?」
「さあ、何か意味があるかもしれないし、最初から何の意味も無いのかもしれない。でも、あなたは寂しくて仕方ないのね。夢の彼女に会えなくて」
胸を切り開かれて、心の内を覗かれているのではないか。
それとも全てが顔に出ているのか、綺原さんは超能力者みたいに僕の感情を当ててみせる。
「その人……よくないことをしてるんだ。止めた方が、いいかな」
唇を重ね合う映像が脳裏をかすめる。
ぐっとこぶしを握りながら、冷静さを保とうとしていると。
「……梵くんが、止めたいんじゃなくって?」
すました声は、いつもの綺原さんらしいのだけど、少し苛立ちが混じっているように感じた。
「……どういう意味?」
「気に入らないって顔してるもの。そのよくないこと、やめさせたいのは梵くんでしょう?」
図星をつかれて、カッと頭に血の気が上る。まるで蓬が好きだから、別れさせたいみたいじゃないか。
「夢に関わらない方が身のためだと思うけど。もしも、本当に
別次元にいる自分に記憶だけが入り込んでいるとして、僕らにとっては、今の過去が現実になっている。
夢での出来事も現実だと言うなら、いつか境界が分からなくなって、意識はここへ戻れなくなるかもしれない。
目が覚めたとき、現実が悪い方向へ変わっていることもあり得る。綺原さんは、そう言いたいのだろう。
「綺原さんは、まだ見てるの? その、未来の夢」
「ええ、相変わらず夜が待ち遠しくってね」
皮肉が込められた言葉は、つぶやきのように空へと消えて行く。
不思議な夢、日南先生や綺原さんとの関係性、そしてピアノの強制没収。どれも経験しなかった過去が、現在の過去には起こっている。
それは紛れもない事実で、きっと、この先に
「綺原さんが見てる未来の夢って、僕も出てきたりする?」
一度、彼女から聞いた覚えがある。まだ互いにタイムリープをしていることを明かす前、部活帰りにファストフード店で夢の話をした時。
意味深な笑みを浮かべて、はっきりと言葉にした。
「……直江先生。綺原さん、僕のことを〝先生〟って言ったんだ。もしかして、夢の中で未来の僕の姿を見ていたんじゃない?」
少し驚いたような目をして、綺原さんは微かに口角を上げる。何か考える顔をして、
「もしそうだとしたら、梵くんが死ぬ未来はこの過去では訪れない。そういうこと?」
「僕が知りたいのは、先生と言った理由だよ。そう呼ばれる職種に付いてたって、ことだろう?」
歯科医師、それともピアノ講師かそれ以外なのか。小さな唇が開きかけるたびに、小さく息を呑む。
「ええ、そうなるわね。でも教えない。私が伝えることによって、あなたの選択肢を左右してしまうかもしれないから」
「でも、それで未来が分かるなら……」
変えられることもあるかもしれない。
今、心の中に湧き上がっている迷いが、正しい方向へ向かっているものなのか。
僕から目を逸らすと、綺原さんはため息をひとつ落とした。
「何かを諦めたようだったって言ったら、必然と見えてくるでしょ? 心境までは見えないけど、あなたにとって幸せな未来なのか……表情を見てたら分かるわ」
その後に続く言葉は、否定的なものだろうと
頭を過ぎったわずかな灯りは消えて、原形をとどめていないろうだけが残された。必死に、芯を崩すまいと粘っている。
初めから期待などしていなかったはずなのに、この落胆はすさまじい。このまま突き進めば、僕は後悔と苦痛に溺れる毎日を送るのだろうか。
「梵くん、これだけは覚えておいて。私が見た未来全てが真実とは限らない。これからの未来は、今のあなたによって作られる。私の言葉で悩まないで、今のあなたがどうしたいのか。それが大切よ」
頭では理解しているつもりでも、切り離すことは出来ない。歯科医師の道へ進むのか、ピアノを続ける道を選ぶのか。
どちらにしても後悔が残る気がして、僕の幸せが約束されることなんてないに等しいのだ。
もしかしたら、綺原さんの知る過去の僕は、全てがどうでも良くなって空を飛んだのかもしれない。
その未来の方が僕にとっては、一番
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