もうひとつの影⑹
屋上で話をしたあと、倒れて病院へ運ばれたらしい。疲労によるものからだと、医師から告げられたそうだ。
家のカードキーが机の上に置かれていたから、通学鞄を探って使ったのだろう。仕方ないことだけど、セキュリティもあってないようなものだ。
こんなことが、前にもあった気がする。ピアノを弾く僕の前に、突然現れた少女ーー蓬が脳裏を過った。
「なんで、日南先生が?」
「ご両親には連絡したんだけどね。その……」
「来なかったんですね」
先生は頷きも否定もしなかった。それは、首を縦に振ったと同じことだ。
「一日で二度も倒れたから、念のため病院に連れて行くと私が言ったの。そしたら、大事なインプラントの手術があるから……お願いしますって」
昔から両親は、僕より仕事優先だった。
患者想いで腕が立つ評判がすこぶる良い歯科。いつも人から感謝の言葉を貰い、笑顔を絶やさない父と母を尊敬していた。
父のような大人になりたいと、子どもながらに憧れを抱いていたこともあった。
だけど町の人の笑顔を見る度に、僕の心は孤独になっていった気がする。
どうして僕は、いつも独りぼっちなんだろう。
どうして僕は、両親の患者じゃないんだろう。そんな意味のないことをよく考えていた。
「お母さん心配してらしたわ。でも歯医者さんだから、予約もあるだろうし大変よね。先生で良ければ力になるから」
「……はい。ご迷惑かけてすみませんでした」
布団に頭まで
背を向けたドアから、日南先生が帰っていく寂しげな音がした。誰もいない部屋なんて慣れているのに、人が去った後の空間は余計に静けさを感じる気がする。
薄い布からそっと顔を出した。勉強机の上には、今朝方まで読んでいた歯科解剖学の参考書が置いたままになっている。
最近、父から譲り受けたものだ。未知の絵と味気ない専門用語がずらりと並べられた紙は、暇つぶしにもならない。毎日、気が遠くなる一方だった。
目を覚ました時には、時計の針が午後六時半を過ぎていた。
夢を見なかった。消えてしまえばいいと言ったからなのか、もしくは今が夢の中なのか。
リビングの方から物音が聞こえる。母が帰って来たのだろうか。
自分の家なのに忍足で階段を降りていく僕は、きっと馬鹿げている。
薄暗い部屋の明かりを付けた。ほんのりと香る白米の匂い。テーブルには、小さな土鍋に入った
ハッとして足早に玄関へ向かうと、そこにはパンプスを履き終えた日南先生の背中があった。
「もしかして、起こしちゃた? 今お粥……」
気付くと、振り返ろうとする彼女を後ろから抱き締めていた。
細くて長い指が僕の腕をキュッと掴む。小刻みに震えているのは彼女なのか、それとも僕の方か。
「あの、直江くん? カノジョか、誰かと間違えてない? 私、君の担任の……」
「もう少しだけ……ここにいてくれませんか?」
「えっと、まず、この手を……」
するりと腕を振り解くことだって出来るはずなのに、そうしないのは日南先生の優しさなのだろう。
シャンプーなのか花のような香りが
離れなくてはと頭では考えながら、抱き締めている腕はよりキツくなっていく。震える手を隠すかのように。
「……誰でも良いんです。傍にいてくれるなら、誰でも。それなら、いいですか?」
ーー嘘だ。
本当は、日南先生と蓬の後ろ姿が重なって見えた。どこへも行って欲しくなかった。
鼻を
泣いてる? 雨漏りを受けるバケツのように、僕の手にポタポタと冷たい雫が落ちてくる。
「大人は勝手。きれいごとばかり言って、簡単に大切な人を傷付ける。考えてるふりして、結局は自分の思い通りにしたいの」
涙を指で拭いながら、引き止める力を失くした僕の腕から、そっと体を離した。少し充血した目は、真っ直ぐに僕を
「でも、そんな大人だからこそ向き合って欲しい。ちゃんと思いをぶつけて、話せば通じ合える心もある。手遅れになる前に。昔の私が、そうだったから」
何も言えなかった。
午後九時四十分。ベッドに横たわり眠れない目を閉じていると、聞こえてくる階段を上がるスリッパの音。
開けられたドアからしばらくして、耳元で足音は消えた。目の前に母が立っていると知りながら、
「梵、大丈夫? 今日は迎えに行ってあげられなくてごめんなさいね」
想像以上の優しい口調は、薄っすらと目を開ける僕に続けて話す。
「疲労だそうね。少し無理をさせ過ぎたのなら謝ります。だから、もうピアノは辞めましょう」
「ピアノをーー⁈」
元から眠気はなかったけど、一気に目が覚めて体が勝手に飛び起きた。
あまりに勢いがすぎたのか、何にも動じない母の表情が少しだけ強張ったのが分かる。
「品を身に付けるために始めたものだから、もう必要ないでしょう。よく頑張って続けて来たわ」
「ピアノは、唯一の……」
「歯科医師に必要なのは技術と能力。それと患者さまに寄り添う心」
言いかける語尾に被せて、母は決まり文句のようにとどめを刺す。
「梵なら大丈夫よ。信じてるから、頑張って」
いつも母は、口癖のように〝信じている〟と言う。
期待を向けられたその台詞は魔法のように成績を上げたけど、同時に解けない呪いで徐々に僕を縛り付けていった。
母の中で父は絶対的存在で、僕の意見はないに等しい。応援すると笑顔を見せながら、両親の敷いたレールを走る選択肢しか与えられなかった。
「勉強は
幼少期に抱いていたように、ただ寄り添って話を聞いて欲しいだけなんだ。
「もう無理しなくていいのよ。少し時間に余裕を作った方がいいわ。書道も辞めて、勉強に専念出来るようにしましょう」
ピアノを優しく奏でているようで、母は
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