もうひとつの影⑸
部活へ行くまでにある十数分の時間。爽やかな風が吹き付ける屋上へ出向いた。
定位置になっているフェンスに腰を下ろして、近付いてくる夏の香りを感じている。
楽しくもなければ面白味もないのに、投げ出されている足は開放感にあふれていて、僕を安心させた。目を
「直江くん」
ふわりと浮きそうな体が、背中を引っ張られるようにして現実へ戻された。
また、日南先生だ。少したわむ背側のカッターシャツを
「なんですか?」
そのままの状態で話を続けると、日南先生は握る左手の力をグッと強めて。
「直江くん、一緒に飛ぼうか」
一瞬、音の無い時間が流れる。「……え?」と疑問符がこぼれた時には、世界が逆さまになっていた。
ドスンという鈍い音のあとに、じーんとした痛みが太ももからお尻にかけて現れる。
空は近いままで、体中に張り巡らされた神経から柔らかな感触が伝わってきた。ようやく、先生の腕に支えられていると気付く。
とっさに遠ざかった心臓は、ぐらつく波のようで穏やかではなかった。
「ごめんなさい」
先に口を開いたのは、向こうだった。
「少し
自分のしたことに動揺しているらしい。自らを責めるように
僕の放つ一言で、
「一緒に飛ぼうって言ってもらえて、いつも明るくて人気者の先生でもそんな顔するんだって知れて。正直、嬉しいです」
満月のような目は驚きに満ちている。開いた瞳孔の先に何が秘められているのか、少しばかり興味があった。
「昔、この屋上で同じようなことがあったの。まだ高校生だった。先生ね、
やはりというより、まさかの方が強かった。
蓬の名を口にしようとした時、吹雪を思わせる突風が吹いて、それに合わせるように、背後からひそひそと身を潜めた話し声が聞こえてくる。
隠れる気はないのだけど、後ろめたい気持ちに襲われるのはなぜなのか。
うろたえながら、もうひとつの違和感に気付く。素早く振り返るけど、さっきまでいた日南先生の姿がなくなっていた。ドアから帰っていたら気付くはずだけど、それは違う。
慌てて乱雑にフェンスへ足を掛ける。見下ろしたところにも、彼女はいない。幻のように
「……先生」
今度は、鮮明に聞き取れる声が鼓膜を通過する。風に漂う花の蜜に誘われるように、僕は気配のする塔屋へ近付いた。
建物の
どくん、心臓を撃たれたような衝撃が走る。
見てはいけないものを見てしまった。するべき行動を頭では分かっているのに、体は微動だにしない。網膜に焼き付ける如く、彼らの行為を見ていた。
蓬は閉じていた
「先生、やっぱりダメだよ。誰か来たらどうするの?」
「屋上なんて誰も来ないさ」
皆川は再び顔を近付ける。彼らには僕の姿が見えていないのだろう。
動け、動け、早く動け!
呪文を
もう見たくない。見ていたくない。
呪いが解けたのか、右足が一歩後ろへ動いた。もう一歩下りながら、大きく口を開ける。
「よもぎーーっ!」
水彩絵の具が
個室に響き渡る自分の叫び声で目が覚めた。呼吸は荒くなって、心臓は落ち着きを忘れた音をしている。嫌な夢だった。
目の先にある白い天井を眺めながら、数回深く瞬きをする。
薄いオレンジのロールカーテンが、
保健室で寝ているということは、倒れたのか。それとも、また時間が巻き戻されたのか?
掛けられている布は
「大丈夫? 何か、うなされてたみたいだけど」
ベッドの
「……誰のせいだと思ってんの」
ぽつりと、小さな氷のように放つ言葉は、誰に向けたものでもなかった。
「梵くん、顔色良くないよ。もっと寝てた方が……」
額へ伸ばされた細い指を、パッと払う。
「
体中の細胞が蓬を拒絶していた。丸い目をして、何も知らないような顔で僕を見ている彼女が嫌いだ。
教師とあんなことをしておいて、平然とした態度で接しられる神経が理解出来なかった。
「早く覚めてくれよ。頼むから、もう僕の夢に出てこないで」
「梵くん、どうしちゃったの?」
「全部消えてしまえばいい。全部、ぜんぶっ!」
ーーあの時、蓬の頭に添えられた皆川の左手薬指には指輪が光っていた。
既婚者でありながら蓬に触れていたあの男を、心の底から
それと同時に、恋焦がれる瞳をする蓬を憎らしく思った。
どうして僕じゃないんだ、と。そんな自分が気持ち悪くて、恐ろしい。
ぐっと握った薄い布に小さな水滴が落ちる。ひとつふたつと増えていく丸いシミは、やがて目の前が
行き場のない怒りを込めて握る
世界は
「大丈夫?」
背中へ伝わる手の温もりに反発する体。涙まみれの顔を
白かった手元の布が灰色へ変わり、少し開けられた窓には
ようやく、目が覚めたのだろうか。相変わらず息は苦しくて、交感神経が働いている。これほどまでに意識の変化なく現実へ移行する夢があるものなのか。
「良かった。顔色、戻ったみたいね」
優しく奏でられるピアノのような声が、耳に流れてくる。
「どうして、
隣に座る人影は、穏やかな笑みを浮かべる日南先生だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます