もうひとつの影⑷

 重い教室のドアを開けて気付いた。何十もの弁当箱の蓋が一斉いっせいに開かれた匂い。時計の時刻は十二時半を示している。今は昼食の時間。

 挨拶活動中に倒れたのだとすると、少なくとも四時間以上は眠っていたことになる。

 登校した覚えはあるけど、今日は挨拶活動をした記憶がない。最近、夢と現実の境目が曖昧あいまいになっている気がする。


「直江、大丈夫か?」「ゆっくり休んだ方がいいよ」とクラスメイトの心配する声が飛び交う。


「ありがとう。もう、平気だから」


 彼らの言葉に胸を撫で下ろして席へ着いた。弁当を食べる頃合いを見計らって戻ったと思われたのでは、という気持ちが少なからずあったから。

 前の席である綺原さんの姿はなかった。

 苗木なえきは、ちょうど購買こうばいから帰って来たようで、右手にパンを持って入って来た。


「直江、もういいのか? 眠り王みたいになってたんだろ?」

「変なネーミング付けるのやめろよ」

「いや、お前は王だよ。頭良いし、なんでも出来るからなぁ」

「僕は全てをそつなくこなす完璧な人間じゃないよ。それに全然、すごくないから」


 僕は何も出来ない。ただ、毎日を必死に生きているだけなんだ。

 周りに認めてもらいたくて、弱言よわごとに潰されないように踏ん張っているだけ。


「生徒会長と部長ってゆう二足の草鞋わらじを持つ者だぞ? それに、将来は歯科医師ときたら、なかなかいねぇよ」

くんじゃなくて、そこは持ってるんだ」


 思わず、ぷっと顔がほころびる。たまに難しいことを言い出したと思うと、覚え間違えている。そこが苗木の良いところでもあるのだけど。


「まあ、細かいことは気にすんなよ」


 笑いながら、苗木が僕の机にパンをひとつ置いた。校内で一番人気のクリームパンだ。

 高校に入学した頃を思い出した。新入生の挨拶をした僕は優等生と見られて、不良と呼ばれる上級生から目を付けられた。勉強ばかりしている頭の固い奴だと。


 校舎裏に呼び出されて、「金をよこせ」とたかられた。家が歯科医院であると知られていたため、金を持っていると思われたのだろう。

 でも、僕の財布に入っていたのは三千円だった。


「おい、お前しけてんな。ほんとに歯医者の息子かよ」

「諭吉さま、別のとこに隠してんじゃねぇの?」

「探してみるか?」


 上級生たちは、ブレザーを触り始めた。

 自分よりがたいの大きな人間を相手にしていても、それほど怖くはなかった。死ぬほど殴ってもらえたら、入院出来るくらいに考えていた。


「僕、そのお金渡すなんて言ってませんけど……」

「お前、なに調子乗ってんの? 大人しく言うこと聞け……」


 手を振りかざされた時、偶然通りかかったのが同じクラスの苗木大祐たいすけだった。


「何してんだ? お前、直江じゃん。直江、直江……えっと」

「……梵だよ」

「そうそう、直江梵! 誰か探してたなぁ。ああ、生徒指導! もうすぐここに来るぞ」


 その声を聞いた彼らは慌てて逃げて行った。

 どうして助けてくれたのか訪ねると、苗木はいつもながらの笑みを浮かべて。


「ここは俺の憩いの場だ。せっかくのクリームパンが不味くなる」

「ごめん」

「直江って、いつもそうやってとりあえず謝ってんの? お前悪くないのに、謝る必要ねぇよ」


 クリームパンを半分に分けて、僕へ差し出すと。


「これ上手いから食ってみ。嫌なこと飛ばされて、元気出るぞ」


 思わず吹き出してしまった。苗木は何が面白いのだと戸惑っていたけど、純粋に嬉しかったんだ。

 成績や役割りでしか認めてもらえない僕を、名前も知らないただのクラスメイトとして助けてくれたことが。


「……うまい。すごく」

「だろ?」


 今まで食べた昼食の中で一番と言えるほどに、そのクリームパンは美味しかったことを覚えている。


 窓の広い額縁がくぶちに腰を下ろした苗木は、満足そうな笑みを浮かべていた。胸のボタンに糸が引っかかっているような気持ちになるのはどうしてだろう。

 持参していたコンビニのおにぎりを鞄に入れたままにして、ありがとうと掴んだパンをあげて見せる。ひと口含んだクリームパンは、懐かしさと優しい味がした。

 もう一度、彼の表情を見てもやりの原因に気付く。


「それより、苗木……大丈夫なの?」

「俺、何かあったけか?」

「何って、その、視聴覚……」


 昨日、苗木は視聴覚室で好きな子と男性教師が抱き合っているショッキングな現場を目撃したはずだ。相当なダメージを受けていた印象があったけど、今は平然として見える。

 もしかしたら、また些細な変化が起こって未遂で終わったのか?


「そうだ! 昨日、視聴覚室へ忘れ物取りに行ったら、一組の女子と数学の関路せきじが抱き合ってたんだよ! これってやっぱり、デキてるってことだよな」


 興奮気味に話す彼は、どの角度に変えても楽しんでいるようにしか見えない。


「ああ……そう、なのかも」


 拍子抜けした声が出る。一度目の時とは、雲泥うんでいの差というほど態度が違う。

 目撃はしているのに、一体どうなっているんだ?


「高校生の女子ってさぁ、年上に憧れるもんなのかね」


 独り言のようにつぶやく苗木は、遠くを見つめる切ない目をしていた。

 僕は、その瞳を知っている。夢で会った蓬と同じ色目いろめだ。

 彼が視線を向ける先には、校庭で一人弁当を広げる綺原さんの姿があった。


 理由は分からない。ひとつ言えることは、少しずつ、そして確実に過去と未来が変わりつつあるということだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る