もうひとつの影⑶
ふわふわと浮くような気分から、ゆっくりと目を覚ました。太陽の眩しい日差しが、カーテンの隙間から覗いている。
今日は珍しく夢を見なかった。なくても困りはしないのに、何か物足りない妙な感覚だ。
ベッドから起き上がった状態で、指をグッと握ってパッと開いてみる。ちゃんと自分の意思で動かす事が出来る。まだ僕は生きているのか。
いつも通りに朝食を終え、歯を磨いて登校する。
『九月十八日は、あなたの葬儀だったの』
昨日、綺原さんが話してくれたことは事実だろう。それからの話をほとんど覚えていない。
自分が死んだ事実を告げられたというのに、ああそうかとしか感じられなかった。生きることに執着はないけど、そこまで何もないものか。
まだ誰もいない教室に座り、頭の中を整理するようにノートを開く。
僕のいた世界線Aでは、八月二十一日に日南菫の葬儀が行われた。綺原さんのいた世界線Bでは日南菫は生きていて、九月十八日に僕の葬儀があり、現在いる世界線Xへ僕と綺原さんはタイムリープした。
些細な選択肢によって未来が変わるのは分かるけど、この一ヶ月の間で何が起こったのか。
彼女の死か、僕の死か。
後ろからカタンと音がして、ふっと意識が戻る。
「何してるの?」
振り返るより先に、すぐ隣に誰かが来た。聞き覚えのある透明感あふれる声は、確認しなくても
ノートを閉じた僕を覗き込むように、蓬はクスッと白い歯を見せる。
「今、何隠したの? もしかして、悪いこと?」
「なんでもないよ。というか、どうして君がここにいるの?」
「君じゃなくて、よ・も・ぎ! だって、ここは私の教室だもん。
辺りを見渡してみる。同じような教室だけど、どこかしら違和感があった。知らない黒板の字、見慣れない掲示物と生徒の持ち物。
ここはどこだ? 僕は、また夢を見ているのか?
机の上にある筆記用具は自分のだけど、転がっている鉛筆は違う気がする。
そういえば、小学生の時にキャップを付け損ねて、左手親指の付け根部分の膨らみに芯が刺さったことがある。激痛で涙を
もし夢ならば、痛みを感じないのだろうか。
アイスピックで氷を割るように、肩の位置から鉛筆を振りかざす。
あれ、手が動かない。頭でイメージは出来ているのに、体が思うように反応しない。手に伝わる感触のリアルさに
上げている腕に、包み込むような手のひらが触れた。
「自分を傷つける行為はダメだよ。それに、すごく痛いよ? それ」
耳元で
「夢でも痛いのかな」
「夢でも痛いよ。それに、私たちは不思議な夢の中に閉じ込められてるから。もしかしたら、起きたら本当に怪我してるかもしれないよ?」
「そうなのかな」
手のひらを眺めながら、別に構わないと胸の中でつぶやく。
いっそのこと、ベッドの上が血だらけにでもなっていたら、学歴と
教室がざわつき始めた。登校して来た生徒たちが、
やはりと言うか、見覚えのない顔ばかりだ。僕のことが見えていないのか、それとも見てない振りをしているのか。
まるでここが映画館にでもなったかのように、皆が知らぬ顔で通り過ぎて行く。
流れに乗って、
前のドアから担任と思われる男性教師が入って来る。二十代半ばくらいで、
当然初めて見る顔だ。出席を取り出して、男子が順次に返事をしている。
そろそろ目を覚ましてもいい頃だろう。だけど、この現状から一向に抜け出せない。
最初から、僕の意識は
おそらく、眠っている時間に見る夢とは違う。これは夢と現実が織り混ざっている不透明な空間。
不意打ち過ぎて、少し取り乱してしまった。机にぶつけた肘が、心なしかジンと痛む気がする。
さすりながら、斜め前に座る彼女へ視線を飛ばした。相変わらず、鼻筋の通った綺麗な横顔だ。
大きな目の
たしか生徒から、
思ったとたんに、もやっとした黒い煙が胸の中に現れて、僕は意識を失った。
「……くん」
頭の中で何か聞こえる。
「……
誰かが僕の名を呼んでいる。
早く目を開けなければ、ふわふわとした
「梵くん、起きて!」
勢いよくハッと目を見開くと、白い天井を背景に、ぼんやりとした人の
周りは薄いオレンジのロールカーテンで囲われている。どうやら、保健室のベッドで寝ていたようだ。
胸が痛苦しい。排気ガスを吸ったように肺が重く感じる。
「大丈夫? 挨拶活動中に突然倒れたみたい。熱はないようだけど、ひどくうなされてたわ」
「うなされる?」
「変な夢でも見てるのかと思って、強制的に起こしたの」
「夢……」
また彼女の夢を見ていた。
でも、頭の中だけで繰り広げられている幻想とは違う。
実際に、僕は
「はっきりとした意識の中で見る夢。綺原さん、前にそう言ってたよね」
「あら、そんなこと言ったかしら」
「実は九十歳のお婆ちゃんがタイムリープしてる?」
「冗談よ、覚えてる。ちゃんと十七歳の女子高生ですから」
「それなら良かった」
少し唇を尖らせて、ベッドの傍に腰を下ろす綺原さんに、僕は質問を続ける。
「夢の中で現実が起こってる。知らない人なんだけど確かに存在してて、僕はその人と夢の中で会ってるんだ。実際に」
「梵くんって、結構ロマンチストなのね」
「多分、綺原さんも同じような夢を見てるんじゃないかと思って」
穏やかだった目が閉じられて、長いため息を吐くように彼女の瞳が開かれた。
「私のはそんな素敵なものじゃない。現実よりもっと現実的な夢よ。見たくもない未来のね」
「未来?」
「とっても残酷でしょ? だって、好きな人が違う誰かといる光景を
綺原さんって、好きな人がいたのか。そんなことを口に出来るはずもなく、僕の唇は動きを止める。
「現実でないと割り切れるほど、夢であってくれたらね」
緩やかに口角を上げる仕草は、表情に乏しい彼女に似合わず無理をしているように感じた。
なんとなく、その感情が分かる気がする。
誰かを想っている時の顔に似ている。
「不思議な夢を見るようになったのは、ちょうどタイムリープが起こる前日。それか直前だと思う」
「同じね。私も夢から覚めたら時間が巻き戻っていた。それぞれの見ている夢と、何か関係があるのかしら」
「分からない。でも可能性はある。だから、これからノートかスマホに、夢の内容を記録として残しておけないかな」
無意味なことかもしれないけど、役立つ時があるかもしれない。
「梵くんには、さっきの話が聞こえてなかったみたいね。今にでも抹消したいバッドエンドの映画を、シナリオにして手元に置いておけってことで合ってる?」
「ええっと……ごめん、無理にとは言わないけど」
すんとした顔をしているけど、声色は怒っている。地雷を踏んでしまったらしい。
波風を立てないように、と結局引いてしまう。僕の人生なんて、いつもこんな感じだ。
「あなたって、ほんとお人好し。あまり自分を抑え込んでばかりいると、そのうち心が悲鳴をあげるわよ」
ツンとした態度で、綺原さんは保健室を出て行った。
分かりづらいけど、今のは日記を付けてくれると受け取っていいのだろうか?
クールな印象が植え付けられている綺原さんだけど、どこか柔らかな声は、優しいピアノの音色を聴いているみたいだった。
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