もうひとつの影⑵
「そんなに慌てて、どうしたんですか? 手、離して下さい」
「離せません。直江くん、こんなところで何してるの?」
「空を見てただけですよ」
「……そう、空を」
手首を締め付けている力がギュッと強まる。それから、花が開くようにゆっくりと手が自由になった。今の間は何だったのだろう。
小鳥が地上へ降り立つように、軽やかな靴音を鳴らしてフェンスから身を離した。
コンクリートにしっかりと両足を着けているのに、日南先生は僕を見たまま立っている。まるで危なっかしい五歳児を見張るみたいな顔付きで。
そうだ。なぜかやたらと心配されていたんだ。
そうして、日南先生は
「直江くんは、時々ふわふわって、どこかへ飛んで行ってしまいそうに見える」
「まあ、空を飛びたいって思いは……少なからずあります」
その気持ちの終着点に、何があるのかは分からない。死にたいと考えたことはないけど、解放されたいと思うのは常に、だ。
だから、あの時僕は驚いた。自分自身が気付いていない心を見透かされていたこと。それから、この後に続くセリフに。
春の風に揺れる髪を耳に掛け微笑むと、日南先生は同じように真顔で言ってのけた。
「直江くん、君の生きる時間を私にちょうだい?」
何度聞いても、背中がむず痒くなる。
なんと反応したらいいのか困惑しながら、それでいて少し冷静に言葉を返す。
「それって、どういう意味ですか?」
頭のネジが抜けている。前はそれくらいにしか思っていなかった。
でも今は、もう少し平静な気持ちで受け答えが出来る。
昨年赴任して来たはずの日南菫は、体育館階段の壁画に思い入れがあると言った。一度目は持病で死んでしまうと告げたのに、今は否定している。
八月二十一日。日南菫の葬儀が行われた夜から時間は巻き戻り、同じ過去が繰り返されている。変わった夢を見るようになったのも、その日からだ。
不思議な現象と彼女は、何か関係があるのかもしれない。
「どうと聞かれると、ちゃんと答えられる気がしないなぁ。しいて言うなら、直江くんが死んでしまうのが怖い……かな」
口調は穏やかなのに、なんて寂しそうな表情だろう。まるで、本当にいなくなることを知っている目をしている。
日南先生の死を目の当たりにした僕みたいに。
「人間はいつか死にますよ。みんな、死ぬ」
「そうだけど」
「でも、まだ死なないで下さい」
「わたし?」
「一応、心配してるんですよ。先生のこと」
戸惑った表情で、日南先生は僕を見た。
無理もない。釘を刺したのは、これで二度目だ。それほど親しくもない生徒ならば、気味が悪くもなるだろう。
「そういえば直江くん、これから生徒会よね。早く戻りましょう?」
「すぐ行きます。でも、これから試したいことがあるので、少し一人にしてもらえますか」
「でも」
「何が先生をそんなに不安とさせるのか分からないけど、絶対死なないから大丈夫ですよ」
「絶対ほど信用ならない言葉はないよ」
疑っていると言いたげに、また風にさらわれそうな髪を耳にかけた。
青空が背景となって、一枚の写真みたいだ。
なんだろう。日南先生って、なんと言うか、こんなに綺麗な人だったのか。
「……分かったわ」
引かない僕に負けたと言うような顔をして、ちらりと振り返りながら屋上を出て行った。
先生の姿が見えなくなったのを確認して、冷静に周りを見渡す。
カシャンカシャンと音を立てながら、僕は幅の狭い鉄格子に両足を乗せた。夢の中で
時間が巻き戻るきっかけが死だとしたら、ここから飛び降りたらどうなるのか。
ゆらゆらと風が僕を揺らす。深呼吸すると、広い空へ吸い込まれそうになる。
「待って」
ふわっと身体が宙に浮いて、背中が落ちる。後ろに重心を置いていたため、屋上のコンクリートへ着地した。
「あなた正気? それとも死にたいの?」
動揺した声の主は、綺原さんだ。普段はクールで冷静な彼女でも、さすがに取り乱す状況だったらしい。
無意識だろうが、僕のカッターシャツの袖を掴んでいる。小刻みに震える指が、相当焦っていたことを物語っていた。
「どうして綺原さんがここにいるの?」
「そんなこと、どうでも良いじゃない。今は、あなたが飛び降りようとしていた事実の方が問題でしょう?」
「違うんだ。いるはずのない綺原さんが、ここにいるという実態が問題なんだよ」
一度目の時、彼女は屋上に来ていなかった。
だけど、今はこうして目の前にいる。
「意味が分からない。私は
「前は教室に戻った時、綺原さんは弓道場にいた」
「勘違いじゃないのかしら?」
日南先生と屋上で初めて話したあと、生徒会を終えてから部活へ行った。遅刻したのは僕だけだったと覚えている。
綺原さんが僕の記憶と違う意志を持って行動していることは間違いない。モコバーガーの件もそうだ。一度目は、一緒にご飯など食べていない。
でも、この妙な違和感はなんだろう。食い違うはずの会話が、すんなり噛み合う感じ。
「じゃあ言わせてもらうけど、私は前も菫先生を追って屋上に来た。何も違ったことはしてないつもりよ」
予想通り。綺原さんの時間軸も巻き戻っている。前と違う言動をしたり、タイムリープしていなければ理解しがたい話も受け入れられたわけだ。
「初めから違ってたんだ。僕と綺原さんが未来から来ていることに違いないけど、元々の世界は別だってこと」
「それって、どういうことなの?」
お互いの過去には、少しずつ誤差がある。
どちらの記憶も正しいとすれば、今ここにいる僕らはAとBというそれぞれの世界線から、また別のXという過去に飛んで来た可能性がある。
なるほどねと、綺原さんは何かを考えるように口を閉じた。
些細な選択が積み重なって、違う未来を作っていく。同じように感じる過去でも、少しずつ変化しているんだ。
「ところで、梵くんはいつからタイムリープしてるの?」
「八月二十一日。日南先生の葬儀から」
「菫先生の……葬儀?」
目を丸くした綺原さんは、いつも出さないような高い声を上げた。少し驚いた様子で何度も瞬きをしている。
「違うの?」
「私は九月十八日から。それから、菫先生は生きていた」
「そう、なのか。それなら良かった」
別の世界線では、日南菫は生存していたのか。そうなると、持病で亡くなったという理由が
だけどどうして……ああ、分からない。
「でも葬儀はあった。……梵くん。九月十八日は、あなたの葬儀だったの」
風の吹き付ける音が聴覚を奪うように、耳元を走り去って行った。
空を飛ぶ鳥のさえずりが、効果音のように
綺原さんの動かす唇だけが、ジリジリと脳裏に焼き付いて。
ーーそうか、僕は死んだのか。
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