夢境のつづき⑵

「……はい?」

「君の名前、直江梵くんなの?」

「えっ、お姉さん誰ですか?」


 不審な顔をして、教科書をトートバッグに入れる少年。明らかに警戒しながら去ろうとする彼の細い腕を、無意識に引き止めていた。


「怖っ、警察……」

「ああ、つい、ごめん! もちろん誘拐なんてしないよ? 私、結芽岬高の日南菫って言うの! ここでいいから、少し話がしたくて」


 慌てて手を離すと、少年は何かを考えるように唇を尖らせて。


「このあと塾があるから、手短にお願いします」

「ありがとう。暑いから、木陰に入らない?」


 木の椅子へ座るように促すと、少年は素直に腰を下ろした。大人びて見えるけど、中身は良い意味で小学生だ。


「せっかくの夏休みなのに大変だね。教科書見てたから、塾帰りだと思ってた」

「これはピアノ教室です」


 見せられたトートバッグの内側には、音符とピアノ教室の名前が書かれている。

 思い出した。曲なんてほとんど弾いたことがないのに、隣に座って彼とピアノの演奏をしていたこと。彼の奏でる音色は星屑のようにキラキラしているのに、いつもどこか寂しげだったこと。


「男がピアノ習ってるなんて恥ずかしいから、いつもこうして歩いてるんだ」


 再び戻された音符の柄は、少年の腕の中に隠れた。


「かっこいいと思うけどな。男の子がピアノ弾いてる姿って」

「ピアノ習ってる男子って弱そう、女っぽい、根暗そう。世間的には、まだそういうイメージの方が強いんです」

「ふーん。でも、クラッシックの偉人だって男の人が多いじゃない。ベートーベンとかショパンとか」

「そこと一緒にされても……」


 ため息を吐く少年は、夢で会っていた高校生の梵くんとは少し違った印象を受けた。


「じゃあ、辞めちゃえばいいのに。サッカーやバスケとかの方が女子からモテるでしょ?」

「簡単に言うなよ! ピアノは、僕にとって大事なものなんだ」


 キッと目を吊り上げて歯向かう姿が、いつか夢で見た彼と重なる。

 真剣な表情はこの頃から変わらなくて、改めて幻想ではなかったのだと教えてもらった。


「知ってるよ。私の知ってる梵くんは、体の一部みたいにピアノを自由自在に操ってた。すごかったんだから、高校生の君」

「……何言ってるの?」

「ふふっ、私の独り言だと思って」


 こうして話していることに、まだ実感が湧かない。たしかに彼だと言えるのに、何も覚えていない姿を目の当たりにして少し残念に思う。

 様々な感情が湧き出て来て心は忙しいけど、素直に嬉しい。


「将来は、ピアニストかピアノの先生になったりするの?」

「好きだけでは、どうにもならないこともあるんだ」


 身に覚えがあり過ぎる台詞は、私の心臓を揺さぶり深く突き刺す。

 時折見せる曇った表情を浮かべながら、少年は人差し指を彼方へ向ける。そのまま私の視線も流れるように動く。

 示す先に見えていたのは、『なおえ歯科・口腔外科』という看板。まさか、と思った。


「僕の未来は最初から決まってる。親も、おじさんやおばさん、近所の人までもが口を揃えて言うんだ。〝将来は立派な歯医者さん〟だねって」

「そんな……まだ小学生なのに」

「あそこは、お祖父じいちゃんが始めた歯医者なんだ。だから、子どもの頃からお父さんの将来も決まってたってわけ。僕だけピアノをするなんて、出来っこないんだ」


「そんなこと関係ないよ」という無責任な言葉がのどの寸前まで上がってくる。

 でも、何も言ってあげられなかった。

 なげきにも似た小さな声に、寄り添ってあげることが出来なかった。余計に彼を苦しめてしまう気がして。


「もう帰る」と言って、少年は去ろうとする。

 こんなはずではなかった。もっと夢のある話をしようと思っていたの。

「君とは夢の中で出会ったんだよ」「高校生になった君はたくましくて、優しくてかっこいいよ」そう教えてあげたかった。


 だけど、今の私では梵くんを笑顔にしてあげられないから。これだけは伝えておきたい。

 息を大きく吸って、まだ小さな背中に呼びかける。


「梵くん! 絶対、ピアノ辞めちゃダメだよ!」


 かかとを向けている少年の足が止まった。控えめに振り返る瞳には、薄っすらと水の玉が浮かんでいる。


「君のピアノは世界一だから。大きくなったら、もう一度聞かせて欲しいの。だから、好きなことを辞めないで」


 小さく頷く少年の顔には、初めて見る笑顔が咲いていた。

 その時、心に誓ったの。いつか教師になる夢を叶えて、彼のような生徒たちの力になりたいと。


 それから六年後、私は高校生になった彼と再会した。初めて見た瞬間、心臓が震えた。夢で会っていた時の容姿は、もうほとんど色褪せてしまっていたけど、ひと目見て分かった。

 綺麗な黒髪、垂直に下りた長い睫毛まつげ。シャープな印象の輪郭と小さな口。彼が直江梵だと。


 古い記憶のアルバムを取り出して来たみたいに、モノクロだった映像が鮮やかに色付いていく。

 でも、まだ彼は私を知らない。記憶を失くした旧友に会ったような、あるいはずっと会いたいと想いを寄せていた人に会えたような。とにかく、胸の中は不思議な感情であふれていた。


 彼らが三年生になり担任を受け持った時、全てを悟った気がした。ついにその時が来てしまうのだと。

 だから八月二十一日が訪れるまで、彼の生きる時間に私がいて欲しいと思った。

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