はじまりの夢⑷

 綺原さんとは、二年の時にクラスが同じになったことで話すようになった。容姿が整っているため、男子の中ではちょっとした有名人で。

 だからなのか理由は定かでないが、出会った時から女子の中で浮いていた気がする。彼女自身が、一匹狼でいることを好んでいるようにも見えた。


「ねえ、そよぎくんとすみれ先生って、どんな関係?」

「どんなって? ただの担任と生徒だよ」

「あら、面白くない答えね」


 意味深な笑みを浮かべた綺原さんが、グッと顔を近付ける。それから、わざとらしく蝶が羽音を鳴らすような声で呟くんだ。


「見ちゃったのよね。梵くんと菫先生が美術室で逢い引きしてるとこ」

「逢い……?! いや、それは、ただ単に用事があっただけだから」


 美術室を訪れたのは、過去と未来で一度だけ。

 時間が巻き戻った昨日、日南先生の体調確認をした時だ。後ろ指を刺されるようなやましいことは何もない。


 でも、伏し目がちな表情は変わらずで、僕のポテトをぱくりと頬張った。まるで決定的証拠を掴んでいる探偵みたいな顔をしている。


「そう? とっても親密そうにしてたじゃない。まあ、それは私の夢の話だけど」

「……夢?」

「夢であって夢でない。現実よりも現実な夢」

「どういう意味?」

「さあね。はっきりとした意識の中で見た夢、とでも言っておこうかしら」


 抽象的ちゅうしょうてきに繰り広げられる彼女の話は頭を混乱させた。

〝夢であって夢でない〟というキャッチフレーズのような一文。身に覚えがあり過ぎて、深く突っ込めなかった。


 これ以上は詮索するなとアンテナが張られていたから、どちらにせよ聞けなかったのだけど。

 きわめ付けは、別れ際の言葉だ。


「また月曜に、ね。直江センセ?」


 先生って、なんだ?

 もしかすると、綺原さんも僕と同じように、不思議な夢を見ているのだろうか。


 塾から自宅へ帰って来たのは、空の明るさが弱まってくる夕方五時頃。いつものように鍵を開けて、誰もいないリビングへ入った。


 静かすぎる空間に、母の声がよみがえる。歯科スタッフの歓迎会で遅くなると、今朝に話していたことを思い出した。

 作り置きしてあった冷たい蟹クリームコロッケを温めて、隣にあったサラダも一緒にひとりで食べた。


 こんな時、他に兄弟がいたら良かったのにと思うことがある。

 ひとりヒーロー遊びをしていた幼少期、後部座席から話をする両親を眺めていた小学生時代。試験や習い事の話ばかりしていた中学時代。思い返せば、いつも僕はひとり。


 ピアノは寂しさを紛らわすために好都合な遊びだった。一階にあるピアノルームは、年長の時に父が設けてくれた場所。

 よく、こもって練習をしている。幼い頃は隣で母が教えてくれたけど、今では立ち入ることすらない。


 ひとたび鍵盤けんばんの前に座れば、柔らかく指に吸い付くような音色が部屋を充満して、心に出来た隙間すきまを埋め尽くしていく。

 悲しい曲は嫌いだ。

 心を覗かれているようで、たまに怖くなる。

 だから、僕は晴れやかになるようなメロディを奏でる。指が弾むような、桃色や黄色が浮かび上がるような。


「寂しい曲だね」


 突然、音を切り落とされたように無の世界が広がった。僕の指が、動きを止めたからだ。

 ざわつく鼓動を抑えながら左側へ顔を向ける。隣には、夢で見る茶髪の少女がいた。


「どうして……?」


 陶器のような肌、触れたら指の隙間を溢れていくであろう絹のような髪の一本一本までが、鮮明に写し出されている。

 確かに、彼女は目の前にいるのだ。


 と言えるだろう。


「どうやって、入ったの? 家には鍵がしてあったはずだよ」


 自宅にはセキュリティシステムが導入されていて、二重ロックになっている。訪問者が敷地の中に入るにも、中からの承認がいる。

 彼女が警報も鳴らさずピアノルームへ入ることなど不可能だ。


「そんなの簡単なことだよ。私は初めからここにいた。今、ここに立ったの。だって、これは夢だもの」


「夢じゃないよ。ほら、ちゃんと触れる」と、彼女の右腕を掴む。つるんとした茹で卵のような肌だと明確に分かった。


「あったかい手だね」

「君の手も、温かいよ」


 これは夢であって夢でない。どういうことなんだ?

 川のせせらぎのような音が聴こえ出す。

 白くて細い指がしなやかに鍵盤を鳴らしている。胸を締め付ける切ない音色。


「君、ピアノ弾けるの?」

「少しだけね。でも、これは弾いたことないの。さっきここで初めて聴いたから」

「さっき?」

「消えちゃいそうな寂しい曲」


 このメロディを知っている。幼い頃に母がよく弾いてくれた曲だ。

 無意識のうちに、僕の指がかなでていたのか。


「それから、よもぎ」

「よもぎ?」

「私の名前、君じゃなくてよもぎって言うの。だから、これからは蓬って呼んでよ」

「……分かった。僕は、直江なおえそよぎ

「梵って、変わった名前だね」

「お互い様だろう」

「たしかに。〝よもぎ〟と〝そよぎ〟って、ちょっと似てるね」


 顔を見合わせて互いに吹き出す。家で笑ったのは、いつぶりだろう。

 声を上げて誰かと笑い合うなんてことは、長らくなかったように思う。


 しばらく、ピアノの前で話していた。学校で友達と過ごすような普通の会話だ。

 蓬との時間は、僕にとって現実よりも現実味のある夢だった。

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