はじまりの夢⑶

 不思議な夢だった。目が覚めた時、人肌の感触が指先に残っている気がした。

 夢であって、でも実際に起こっていたような感覚。

 それが要因になったのかは分からないけど、弓道場へ行く前に土曜日の学校へ寄った。

 校舎横に並ぶ体育館用階段の側面壁そくめんへきを確認するためだ。

 入学した当初から、何か描いてあったことは認識していた。通り過ぎるだけの日常背景だった壁に、どんな絵が描いてあったかまでは気にならなかった。つい、昨日までは。


「紫の……人魚」


 壁一面に広がっていたのは、ヴィーナスの誕生のように芸術的な人魚と海の生物。夢では未完成だったけど、こちらではしっかりと完成された絵が目の前に写し出されている。

 鮮やかだった色味は、太陽や雨によって色褪いろあせた写真のように薄くなっていた。

 すみの下には、製作された日付けらしき数字とローマ字で名前が記入されている。もしかしたら、あの子の名前があるかもしれない。


 かがんで顔を近付けてみると、薄くなって読めないところがある。もう少し、目をらしてみたら……。

 あれ、僕は何を必死になっているんだ?

 糸のように細めていた目が元の大きさに戻る。こんなこと、どうでも良いじゃないか。


「絵に興味あるの?」


 風の知らせもなく、頭上から声が降って来た。見上げると日南先生の顔がすぐ近くにあって、うわぁっ! と変な奇声を上げた僕の腰は地面へ崩れた。


「いってぇ……」

「驚きすぎよ。大丈夫?」


 差し伸べられた細い手を掴むか躊躇ちゅうちょする。でも、あっという間に腕は引っ張り上げられ、両足の靴底はコンクリートを踏みしめた。

 触れられた二の腕から手の柔らかさが伝わってきて、知らないはずなのに覚えている。夢で感じた感触と似ている気がした。


「直江くんって、絵に興味あるの?」


 日南先生は、同じ質問を繰り返した。


「ずっと、この壁画を熱心に見ていたから」


 隣に立ちながら、僕はもう一度人魚を見た。表情のない顔立ちが、しばらくすると微笑んでいるように錯覚してくる。夢と現実の境界が曖昧あいまいであるように。


「僕が興味あるのは、これを描いた人です」


 変な奴だと笑われると思った。

 でも、日南先生はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべる。


結芽高ここの卒業生。学祭のために美術部が描いたのよ」

「美術部?」

「そう。だから私としても、この壁画はとても思い入れがあるの」

「どうしてですか? 確か去年でしたよね、日南先生が転任して来たのって」

「だって」


 言いかけたとたん、校舎から音楽が流れ始めた。聴き慣れたクラッシックのメロディが、彼女の言葉をわざとさえぎったように聴こえた。


「もうこんな時間なのね。直江くん、弓道場行かなくていいの?」

「……行きます」

「そろそろ、先生も美術室へ行こうかな。じゃあ、また明日ね」

「はい」


 理由を聞けないまま、予想通り会話は途切れてしまった。

 今日の僕はどうかしている。

 もしかしたら、夢で会った少女を日南先生が知っているかもしれない。そんな馬鹿げたことを真剣に考えていたなんて。



「ねえ、お昼一緒に食べない?」


 道着から制服へ着替えると同時に、綺原さんが声を掛けて来た。

 土曜日の部活は十二時で終わる。普通でいけば、このあとは自由というわけだから僕を誘ったのだろう。

 実は前にも一度、彼女に断りを入れている。でも、綺原さんは知らない。時間が巻き戻る前の話だからだ。


「悪いけど、これから塾なんだ」

「何時から?」

「一時から、だけど」

「あと一時間弱あるわね。そこのモコバーガーなんてどう?」

「ええっと……、少しなら」

「じゃあ決まりね」


 白い歯を見せて満足そうに笑う綺原さんに、少しばかり動揺していた。同じように断ったはずなのに、一度目とは違う反応が返って来たからだ。


 弓道場から少し歩いたところに、モコバーガーはある。高校が近いこともあり、部活帰りの生徒が利用しているのをよく遠目に見ていた。

 学校と部活の行き来でしか通らない僕にとって、帰り道に誰かと店に入るなど初めての体験だ。

 だから、自分の前で女子がバーガーを頬張っていることは、非日常の何ものでもない。


「ねえ、さっきから、ちょっと見過ぎじゃない? さすがに食べ辛い」

「ああ、ごめん。つい物珍しくて」

「それって、私がファストフード食べてることが?」

「そうじゃなくて。こうして外で誰かとご飯を食べるって、なかなかしないから」


 小学生の頃から、習い事の掛け持ちは当たり前だった。水泳、そろばん、塾にテニス。ピアノと書道は中学に入学してからも、部活や塾と平行して通い続けた。

 だから僕は、公園や誰かの家に上がって友達と遊ぶという経験をしたとこがない。もちろん、高校生になって出かけたこともない。


「部活のない日曜でさえ、お稽古けいこで半日潰れるんでしょ? それって、楽しいのかしら」


 淡々とした口調で話しながら、綺原さんがちらり表情を伺う。


「楽しくないけど、辛くはないよ」


 テストの成績が良かった時、ピアノのコンテストで入賞した時、書道で段が上がる度に父と母は喜んで褒めてくれた。

 その時だけは、自分の存在が認められている気がして嬉しかった。

 友達と遊ぶことを我慢していられた。


「楽しさだけで生きていける人間なんていない。でも、たまには美女と食事も悪くないでしょ?」

「えっ……ああ、そうだね」


 本気か冗談なのか分からない発言に、反応がワンテンポ遅くなる。


「そこは突っ込んでくれないと。私が自意識過剰で嫌な女みたいじゃない」

「そっか……」


 そのあとが、詰まって出てこない。

 そうめんと冷や麦の違いくらいに、女心は見極めが難しい。特に綺原さんのようなクールで何を考えているか読めない女子は、特に分からない。

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