第47話

「あ~っ!ほしい~っ!!」

「さとたんもぉ~っ!」


 破り取ったばかりの九月のカレンダーを二つに折ると、私は丁寧にハサミを入れ二人の子供に分け与えた。大きくて厚みのある紙は特別なパレットにでもなるのか、早速何やら嬉しそうに描き始める。あれこれ呟きながら、また時折相手を覗き込んで、その頭に浮かぶ思いをペンやクレヨンに託している。子供を持つ親にとってそんな姿は実に微笑ましい瞬間と、私も目を細めて眺めていたが、なぜかそれが無性に特別な映像のようにも見え、いつしか目の中の笑いは消え失せて行った。


「十月か・・・・」


 再びカレンダーの前に立ち、しみじみとした声を洩らせば、それまで背を向けていた真由美がゆっくりと振り返り、物言いたげな顔でこちらを見ている。



────「引っ越しするんだったら、あんまり寒くならないうちの方が良いかなって思ってるんですけど!?」


 その日の夜、子供を寝かしつけた真由美は二階にいる私の元を訪れた。


「そうだな・・・・」


 穏やかな口調であれ、意味はすぐに理解出来た。


「それで決まったの?」

「ん!?」


「だからカレンダー見てたんでしょ?」


 言うまでもない。しかしながら、ケースによって夫婦の距離も皮肉なものだ。短い会話や重苦しい空気からでも、相手の声が自ずと伝わって来てしまう。


「二十日にしよう・・・・」


 だからなのだろう。私は立ち去ろうとする真由美に声を掛けた。今更何を躊躇しているのという態度への言わば手土産である。


「二十日ね。わかったわ」


 真由美はそう一言呟くと、振り返りもせずスタスタと階段を降りて行く。私にはその一歩一歩と踏み降ろす足音が、秒読みにさえ聞こえるのだった。やがて、大きなため息を漏らすと、私は思い立ったようにクローゼットを開け、中から最後の繋がりともいえる紙を取り出した。そして、幾度かしたようにそれをしみじみと眺めた。


 真由美に出した日付が原因だろうが、書き連ねてある文字が単なる模様に変わり果てた時、私は意を決するかに引き出しに手を掛け親指ほどの大きさの象牙を握りしめる。


 成るようにしかならない。もはや私を後押しするのは、そんな開き直りとも言える

心境だけだった。



───「おはよう!!」


 清々しいとまではいかないにしても、翌朝は何かが違って見えた。圭ちゃんも何かを感じ取ったのか、挨拶を済ませるや、すぐに普段とは違った笑みを浮かべる。


「なんだか今日は顔色が良いように見えるんですけど!?」

「いや~、今月は頭から予定が詰まってるだろ──」


「あ~!先月は結構暇でしたからね」


 体裁の良い言い訳でその場をごまかした私だったが、さすがに心境の変化は隠せなかったようだ。もっとも、それは致し方のないことだろう。何せ残された二十日というのは、私にとっても特別な時間であるからだ。


「圭ちゃん!そのキャビンの配線先に頼むよ!」

「ユニットがまだなんですよ、島さん!」


「まだって!?浅利はどうしたんだい!?」


 幸か不幸かは別として、慌ただしく動いていると気が紛れて良かった。ただそれも一日続くわけでもなく、夕方、圭ちゃんを送り出してしまうと、どこへ向かうべきかで頭を悩ませなければならない。

 

 ある夜、自宅に戻ると引越し屋の文字が入った段ボールが置かれていた。具体的な数字が出たことで準備でも始めるのだろうと、私はあえて尋ねもしなかった。恐らく段取りの良い真由美のこと、引っ越し便から学校、保育園の手筈まで着実に進めているに違いない。


 すべては無駄な詮索と私は口を噤んだが、子供にどう話し聞かせたのかは正直気になって仕方が無かった。住み慣れた家を離れるという程度で、私の顔を見るや平気で荷造りを手伝えとせがむからだ。騙しやすい年頃にしても、余程うまい理由を吹き込んだのだろうと思った。と同時に最後の最後でドタバタするのを避けたかった私は、せめてもの情けと真由美の後ろ姿に礼を言った。


「よ~し!じゃ~パパは何をやればいいかな?」


 やがて消え行く記憶の中に、少しでも自分の姿が残せれば──。情を殺して笑顔で荷造りに手を貸したのも、きっとこんな理由からなのだろうが、離れ離れになる家族の思い出を纏めるのは、決して楽しいことではない。どんなに割り切っていても、不意に目頭が熱くなったりするのである。


「パパ!?どうしたの!?」

「ん!?あ~、虫でも入ったかな!?」


 と、洗面所に向かえば、歪んだ自分の顔がミラーに映し出された。


 辛かった──。


 子供が無邪気に振る舞えば振る舞うほど、私の心は罪悪感で締め付けられた。離婚が現実になった今、本来は顔を合わすべきではないのかもしれない。そんな思いから翌日は恵理香の元を訪れたのだが、逆に辛いと思う一時に触れたくなったりするのだから、人間とは勝手なものである。時間と言う制限が私をそんな思いに駆り立てるのかもしれないが・・・・。


 圭ちゃんがパンフレットらしきものを持参したのは、ちょうどその頃だった。


「いや~、島さんにも見ておいてもらおうかなって」


 話こそまったく違えど、いよいよ圭ちゃんの方も始動したのかと、差し出されたパンフレットに目を移すのだが、当の本人は今一つ表情が冴えない。


「どうしたん?浮かない顔して──」

「ええ‥まぁ‥」


 と、もどかしい返事を漏らした後、


「智美とそれらしいところ、いくつか回って見たんですけど──」


 と、圭ちゃんは派手な式に戸惑いを感じているらしい。


「智美はあんな性格ですからね。友達呼んでパーッと派手にって思ってるんでしょうけど、男の立場って言うか・・・・。なんせこの歳ですからね」


 年々派手になる披露宴など、まさに女のためにあると言っても過言ではなかろう。おまけ役のような男にとっては尚のことである。


「まぁ~な。で、お袋さんは何て!?」

「あ‥ま‥智ちゃんのやりたいようにって」


「味方なしってところか」

「気持ちはわかるんですけどね。個人的には地味に・・・神社とかなにかで」


 圭ちゃんの言うことも頷ける。もっとも今となっては、その式ですら私には無意味だったとさえ思えてしまうのだが・・・・。


「まさかそれで今、揉めてるとか!?」

「いや・・そこまで大袈裟じゃないんですけどね」


 と、圭ちゃんは照れ臭そうに笑った。


「フッ‥、たかだか二時間だろう?披露宴ったって!?」

「まぁ、そうなんですけどね・・・・」


「智ちゃんのこと思えばそのくらい我慢してやんなくちゃ!結婚したらもっと我慢しなくちゃならないことがあるんだしさ!」


 つい、元気づけようとして出た台詞も、自分には気恥ずかしく聞こえてならなかった。


「我慢ですか・・・・。それはそうと、真由美さんとはどうです!?」

「あ~・・・・。真由美か・・・・」


 一転する立場に私は思わず苦笑いを浮かべる。

いずれにせよ明るい話題だ。つまらぬ話で水を差してはと、私は喉まで出かかった続きを抑え込んだが、この話においてもタイムリミットがあるのだと痛感していた。


 私は午後の作業をしながら、いつしか話すタイミングも一緒に探していた。


──ガチャッ!!


 鉄の扉の奥から現れた恵理香は、私を見るなりクスッと笑った。部屋に入ってからも、ただクスクス笑うだけで、言葉らしい言葉はない。しばらく流れに任せていた私も、さすがに自分の顔が気になり出し、


「──何か付いてる!?」


 と、疑問そうに尋ねた。


 確かに来る前には鏡を見た。しかし、じっくり眺めたわけではない。右手で顔を撫でながら、私は数十分前の記憶を辿る。


「ううん、別になんでもないの」

「なんでもって‥笑いじゃないだろ?」


 それでも笑って問い詰めたのが良かったのか、

「一昨日来たばかりだったから」


 と、恵理香はあっさりと答えた。


「あ~!それで!」

「どうしたのかなって?」


「どうしたってわけでもないんだけど、迷惑だったかな!?」

「・・・・だったら笑ったりしないでしょ」


「フッ‥。それもそうか」


 こんな他愛もないやり取りも、二人にとっては心安らぐ瞬間だったかもしれない。


「ちゃんと寝られてるか?」

「ええ‥」


「仕事は行ってる?」

「ええ‥フフ‥」


 とは言え、時にはリラックスも考え物だ。飲み物を持って来た恵理香に何気なく尋ねたつもりでも、また恵理香の笑いを誘う結果となってしまった。


「一昨日と同じこと訊いてるから──」

「あ!?そ‥そうだったっけ!?」


 理由を聞かされ慌てて惚けて見たものの、ばつの悪さと来たら無かった。着実に刻まれて行く時間が、私の意識を別のところへ奪うのかもしれない。正直、ここへ来たら来たで、子供の顔がチラついて仕方ないのだ。熊や人形を詰め込んでいる頃だろうか。使わない新聞までしまい込んで真由美に怒られてはいないだろうか。考えたところでどうにもならないのに・・・・。と、私は自分を嘲笑った。


 しかし、恵理香にはあくまで自分を心配してくれているとしか見えなかったようだ。それが心底うれしかったのだろう。恵理香は自らの身体で喜びを伝えた。私が黙って身を任せたのも、意識を何かに紛らせたかったからに違いない。

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