第35話

 圭ちゃんの新たな愛車がお目見えしたのは、八月の最後の月曜であった。当然のことながら、その日は車の話題で時が過ぎて行った。そして、夜には試乗会とばかりに助手席に腰を下ろすのだが、フロントガラスに広がる闇は新鮮というよりも、寧ろ懐かしささえ感じさせてくれる。適度に狭い空間や左側に座ったことも理由なのだろう。


 小気味よく動くシフトを眺めていると、つい最近起こった事故すら忘れてしまいそうになるのだから不思議だ。それほどこの国の車のアイデンティティは私に特別な印象を与えてくれるのである。


「いや~、セダンでもやっぱり良いですね~栗原さん!」


 以前のZ3ロードスターとの違いと言えば、若干粗さを感じさせるエンジン音とドアの枚数。それから後部座席から聞こえる声だろうか。


「良かったな~浅利!座れる場所があって」


 何げに振り向いた私は、急遽連れ出した浅利を笑って冷やかすものの、三人でのドライブは良い気分転換だと思った。このところ再び巡って来た交差点をどう抜けるべきかと、寝付きの悪い夜が続いていたからだ。模索する時間から来る寝不足より、夜遊びで出る欠伸の方がマシだと、私は暗闇という時間を堪能した。


 堅さを感じさせない足でありながら、糸を引くように車はコーナーを駆け抜けて行く。目に付く新しさもなければ内装も地味。それでも言葉に出来ない何かが犇々と伝わって来るのがわかる。もちろんそれを圭ちゃんに話した。


「島さんも結構ドイツ車乗ってますからね~」


「フッ・・横ばっかりだけどな」


 違いのわかる男。そんなニュアンスにも取れる圭ちゃんの声に、私はやや誇らしい笑いを浮かべるのであった。


───「しっかし、狙った通りに頭が入りますね~!!」


 翌日の火曜も私達は仕事を終えると圭ちゃんの車に集結した。どうやら楽しい一時に味を占めたようだ。特に途中からハンドルを握った浅利の声は興奮と喜びに満ち、暗い車内だというのに眼の輝きですら見えるほどである。とは言え、私にはそれがまた疑問に見えた。普段なら他人にステアリングを預ける圭ちゃんではないからだ。度重なるドイツ車絶賛の声に気を良くしたかの素振りも、ただのこじつけに思えて首を傾げるのだが、あえて私は尋ねもせず三人の織り成す間に身を包んだ。


「そんなに違和感ないだろ?シジミちゃん!」


「右ハンですからね~!って言っても国産より運転してるっていう楽しさじゃ一枚上ですよ」


 後部座席から響く圭ちゃんの声はいつになく新鮮で、ライトに照らされた路面に向かって浅利も声を弾ませる。


「でも、ずっと左だったのに、今回はどうして右にしたんですか?」


「あ~!右だったらシジミちゃんにも運転出来るだろうなって!」


「また~っ!うまいんだから!栗原専務!今宵はどちらに?」


「おっ専務と来たかいシジミちゃん!そうだな~どうでしょう社長?今宵は久々に寿司なんてのは?」


「良いね~!」


「よし!じゃ~営業主任。寿司屋に行くからそこを左に!」


 圭ちゃんの指示に小気味よく浅利が応えた途端、目の前を二本のアームがスーッと行き来した。


「あっ!?・・・・」


 すぐにしまったとばかりに声を漏らす浅利に、


「何だねシジミ君!雨かね?」


 と、透かさず圭ちゃんは突っ込みを入れる。


「フッ・・急に言われちゃな~浅利?」


 隣で宥めながらも私の声は笑いに満ちていた。圭ちゃんの悪戯が手に取るようにわかったからだ。


「そうですよ~。ここだけは国産と逆なんですから──。あ、さては栗原さん!?」


「いや何も、俺はただ曲がってくれって言っただけだしぃ~!」


 否定する圭ちゃんの声とて楽しさは隠し切れなかった。


「いいんですよ~。そうやってからかってれば・・・・。どうせ寿司屋なんて気を持たせたって、回ってるとこなんでしょうしね」


「回ってる!?ったく失礼なこと言って!」


「え!?じゃまさかカウンターでとか?」


「いやいや、言い方が違うんだって。正しくは回転してるだから!」


 車内に広がる笑いという渦の中には、確かに現実から逃避する時間が存在していた。月末近くになり仕事に追われ出したのか、水曜のドライブに浅利の姿はなかった。それが本来のスタイルにせよ、後部座席から伝わる静けさに私も圭ちゃんも口数を減らした。あるいは、折り入った話のある雰囲気を互いに察していたのだろうか。



「不思議に思ったでしょうね?」


「ん!?・・・・何を?」


「ほら、浅利に運転させたじゃないですか」


「あ~その話か。ま~珍しいな~って──」


「そう。絶対訊くだろなって思ってたんですけどね」


「フッ・・。きっとあとで訊けばいいって感じたんだろうな。あるんだろ?その理由以外にも話が──」


 遠くを見据えたまま圭ちゃんは表情を緩めた。微かな笑いだけでも私達には会話になったのである。それから少し呼吸を置いて圭ちゃんは口を開いた。


「かなり深刻なんですか?・・・・その~真由美さんとの仲」

「・・・・・・」


「家庭のことですから、俺なんかが口を挟むべきじゃないんでしょうけど」

「いや・・・・」


「ただ俺としては心配っていうか──」

「わかってるって・・・・悪いな圭ちゃん・・・・いろいろ迷惑掛けて」


「何言ってるんですか。それにそれを言うのは俺の方ですよ」

「フッ・・いいんだって──」


 ため息混じりに漏らした声が、沈黙という時間に変わる頃、私は夫婦の隔たりを少しずつ語り始めた。何かを思い出すように話す様は、独り言にも似ていて、重々しく淡々と吐き出された言葉は、車内をさ迷いながら消えて行った。


「・・・・ったく不甲斐ないですね」


 黙ったままハンドルを操っていた圭ちゃんがポツリ呟いたのは、私の話が途切れてしばらくしてからのことだった。奇しくもその台詞は、私が言うか言うまいか迷った言葉でもあった。


「フッ・・まぁな。仲が良さそうに見えたって所詮はこんなもんさ」


 だからこそ、納得したかに振る舞ったのである。


「違いますよ島さん。俺は自分のことを言ってるんですよ」

「!?」


 だが、少々思惑は外れたらしく、不思議そうな顔を浮かべる私に、


「だってそうでしょう。これだけ島さんと長く居るってのに、そんな押し詰まった状態を見抜けないんですから。我ながら情けないって言うか──」


 圭ちゃんは呆れたように連ねた。一瞬、返す言葉がなかった。きっと感謝という気持ちに、喉が締め付けられて声が出せなかったのかもしれない。


「──気にすんなよ」


 それでも何か声を掛けなければと、労う気持ちを振り絞ったのだが、幸せな一時とは案外身近に存在するものだと痛感させられた。


「フッ・・。俺も芝居上手になったんかな?」

「えっ!?」


「さっき見抜けなかったって言っただろ?」

「あ~!でも女で悩んでいることぐらいわかってましたよ。ま、女っていうよりはこの場合は奥さんでしょうが」


「フッ・・どの辺に書いてあるんかな~?」

「え~ちょうど鼻の横んとこですかね」


 ドライブが午前様に及んだわりには、翌日の私は目覚めからして機嫌が良かった。寝不足を照りつける朝日も、今朝に限っては清々しく、ハンドルを握る手も軽やかに感じられる。


「そうか~!良かった!」


 何度と無くこんな台詞を口にしたのも、昨夜、圭ちゃんから聞かされた話に原因がある。裏を返せば私とて、見抜けなかったことになるのだろう。

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