第56話 優しい声
「……あ゛ぁ゛?」
生死の境目をさ迷うアレスの胸ぐらをつかみとったまま、ピタリと動きを止めたもう一人の俺。ゆっくりとクレアに顔を向ける。
「目を覚ますのだ、リオニス!」
悪戯っ子を叱る母親のように、クレアの手刀が軽く頭部に振り下ろされた。
「――――」
「さあ、いつものリオニスに戻って来い。そのような悲しそうなお前は見たくない」
クレアは子供のような笑顔も見せた。怒ってばかりいないでお前も白い歯を見せてみろ、という風に。
「―――リ……スッ!?」
けれどもう一人の俺は彼女の優しさを疎むように、アレスを投げ捨てると同時にクレアへと手を伸ばす。
「ゔぅッ……」
「邪魔を、するなッ!」
細首を掴んだ手に力が込められる。力任せに締めつけられ、たちまちクレアの顔は
それでも彼女は眼前の男を諭すように、苦しげに結んだままの唇にかすかな笑みを浮かべる。
「…………ッ」
片手で軽々とクレアを持ち上げた男の頬に、細くしなやかな指先が水面を撫でるかのようにそっと触れる。
「――――!?」
驚いた拍子にクレアを離した男が、殴られでもしたようにのけぞりながら一歩退く。
アヒル座りのまま地面に手をつき、苦しげに噎せるクレアをもう一人の俺は食い入るように見つめる。
「おいおい、今度はなんなんだよ!?」
すると再び、この世の終わりみたいな暗い世界で、果てしなく続く血の浅瀬に変化が訪れる。
「揺れてる……?」
怒り狂うように沸騰するのではなく、戸惑うように水面が大きく波打ちはじめた。
「これは……あいつの感情に反応しているのか?」
次第にもう一人の俺の顔は狼狽と苦痛に歪み。人慣れしていない犬のように喉を鳴らし、威嚇のために犬歯をむき出しにする。
「クレア!」
もう一人の俺は何かから逃れるように、獣のように吠えてはクレアに飛びかかった。
勢いよく押し倒されたクレアが、後頭部を地面に打ちつける。
「リオニス、クレアを離しなさい!」
マウントポジションを取られて身動きを封じられたクレアを救うべく、勇敢にも立ち向かったアリシアだったが、凄まじい魔力の波動によって後方へ弾かれてしまう。
「アリー!?」
「アリシア……殿下ッ………」
背中から岩壁に激突する寸前で、ブランがアリシアを受け止めた。
「だから言うとるやろ! 今のあいつは自分らの知っとるリオニスやないんや!」
主の無事に胸をなで下ろしたビスケッタの表情が、またたく間に鬼の形相へと変わる。
「き、貴様ッ! それが
こみ上げる怒りを吐き出しながら突進してくるビスケッタが、あと少しのところで動きを止めた。
もう一人の俺が睨み殺しでもしそうな眼つきで彼女を見据えていたのだ。それは、まるで燃えさかる炎のようである。
「――――!?」
悍ましさから動けなくなってしまったビスケッタが、うわぁーっというガサツな悲鳴を上げて地面に臀部を打ちつけた。振りかぶっていた杖剣が水飴のように溶けていたのだ。
慌てて投げ捨てたビスケッタは、手足がわなわな震える。
「がぁ゛ぁ゛……ッ」
もう一人の俺はビスケッタから真下のクレアに視線を戻し、細首にグッと力を込めていく。
「は、離すんだじょ!」
試験官のタコがクレアの元に走るが、流し目を向けた殺人鬼と目があった途端、猛スピードで引き返した。
「泣くぐらいならはじめから行くんじゃねぇよ! 俺さまたちは戦闘には不向きなんだからよ」
「それでもオイラは試験官なんだじょ! ヴィストラールに生徒たちを任されたんだじょ」
「なら戻って来るんじゃねぇ。死ぬ気で突っ込め」
「無茶言うなだじょ! あいつ滅茶苦茶怖いんだじょ!」
泣きっ面に蜂状態のタコを、ヒトデが慰めている。場違いなほどシュールな光景だ。
しかし、そんなことを言っている場合ではない。このままではクレアの命が危ない。
「どうすればいい!」
万事休すかと思われたその時、俺を取り囲んでいた鉄格子が一斉に血となって弾け飛んだ。
「何がどうなっているのだ……?」
そう思いながら
ここがやつの心の中だとしたなら、予期せぬクレアの言動に心が乱れているのかもしれない。その影響で檻が崩れたと考えるべきだろう。
――これは千載一遇のチャンス!
「あのイカれ野郎を、俺が止めてやるんだ!」
俺は無我夢中で、血溜まりをはね散らかしながら暗闇を駆け抜けた。
行き先なんて分からないけど、じっとなんてしていられない。
「どこにいる! 隠れていないで出てこいッ!」
魔法を封じられた精神世界で、闇に消えた男をどうやって探し出せばいい。
「アホッ、弱気になるな!」
ネガティブ思考を振り払うように大きく頭を振り、俺はそっと瞳を閉じた。
理由は分からないが、あのミイラ男と俺の精神はおそらく繋がっている。
だとしたら、俺にも肉体の制御を取り戻すことは可能なはず。
問題はどうやって肉体を取り戻すのか、だ。
そもそもあいつはどうやって俺をここに……? 俺の意識が薄れたことが原因か?
だとすれば再び入れ替わることは困難だと思われる。
でも、待てよ!
意識がはっきりしていた瞬間も、俺は何度かやつに肉体を乗っ取られかけたことがある。
進級パーティの時も、アレスと対峙したあの夜も――やつはどうやって意識がはっきりとしていた状態の俺から肉体を……。
その時だった――
「……まただ」
揺れている。
地震など起きるはずもない
やつが怒ったり動揺したり感情をむき出しにするたび、血が激しく変化している。
「クレア!?」
俺は
「……怯えてる?」
クレアの首を絞めているもう一人の俺の顔には、脂汗がびっしりと浮かび上がっていた。
「何がどうなってる」
どういう原理なのかはさっぱり分からないが、どうやら感情が昂ることで意識が肉体と
「考えている時間はない」
クレアを助けるためにも、今は思いついたことを片っ端から試すしかない。
「そこをッ――――代われぇぇええええええええええええええええッ!!」
俺は感情を爆発させて、闇に吠えた。
それによってやつの精神世界にさらなる揺らぎが生じる。
内側からの俺の叫びに多少なりとも動揺しているのだろう、波立つ血の海が激しさを増していく。
俺は喉が引きちぎれんばかりの叫びを上げ続けた。天地も裂けよと振りしぼる声は、暗闇を穿く一本の矢のように放たれる。
転瞬、これまでで一番の揺れに襲われる。腰を落として全身に力を入れていなければ、立っていられないほどの強い揺れである。
「あれは……さすがにヤバイくないか?」
この空間を飲み込んでしまいそうなほどの、赤黒い血の大津波がものすごいスピードでこちらに押し寄せてくる。
――間に合わない!?
そもそもここに逃げ場など存在しない。
「うわぁああああああああああああああああああああッ!?」
俺は激しいうねりに飲み込まれていく。目の前は真っ暗で何も見えず。水圧によって四肢は四方に引き裂かれそうになる。回転する身体を止めることができない。
――痛い、苦しいッ!
それでも意識を手放すわけにはいかない。今ここで俺が諦めてしまえば、クレアを――大切な友人をこの手で殺めてしまうことになる。それだけは死んでも嫌だ!
力いっぱい瞼を閉じ、俺は何度も何度も心のなかで祈りを捧げた。
「ゔぅぅ……ッ」
誰かのうめき声が耳に突き刺さり、おそるおそる瞳を開けてみる。
「……え?」
俺の目下には今にも死にそうな顔のクレアがいた。
「ッ!?」
息を飲み、俺はすぐに彼女の細首から手を離そうとしたのだが、動かない。まるで彼女の首と俺の手が溶接されてしまったかのように、離れてくれないのだ。
「邪魔をするなッ!」
自分の口からこれほどまでに邪悪な声が出ることに驚きを隠せない。それと同時にもう一人の俺も気がついたのだろう、俺が戻って来たことに。
しかし、精神が肉体に戻ることには成功したのだけれど、制御の大部分をミイラ男に奪われたままだ。
かろうじて動かせられたのは、左腕一本のみ。
完全に立場が逆転してしまっている。
――が、腕一本あれば十分だ!
「ぐ、れぇ……あ、いば………だずぅ………げぇ、る……が、だぁ」
「―――!?」
途切れ途切れな俺の声に反応するように、力無げに閉じかけていたクレアの目元に力が入る。銀の睫毛に縁取られた石榴の瞳が、息を吹き返したみたいに大きく見開かれた。
――クレアから、離れやがれぇッ――――!!
俺は俺の顔面めがけて左腕を振り抜いた。
「「「「「「「!?」」」」」」」
摩訶不思議な光景だったことだろう。なんせ全力で自分を殴り飛ばしたのだから。
アリシアもビスケッタもイザークもマーベラスもブランも、ついでに二匹の珍生物も、それそはそれは驚いたって顔をしていた。
「貴様は一体なんだァッ!」
もう一人の俺は海老のように跳びはねて起き上がると、見えない
けれど、それを言いたいのはこっちの方だ。人の身体で散々好き勝手やりやがって。
「邪魔をするなァッ―――!」
「や、がぁ……まぁ、じぃ」
性懲りも無くむせ返るクレアに近付こうとする俺を、俺は殴って向かわせない。
「一体リオニスはどうなっていますの!?」
「アリー、近付いてはいけない! 彼は錯乱していて危険だ!」
「僕の親友がついに壊れてしまったッ!?」
「ちょっとあんた試験官なんだからなんとかしなさいよ、ヒトデッ!」
「無茶言うなッ! あれは心の病気だぜ! とっとと医者を連れてこい!」
「お、お医者さんはどこに居るんだじょ!」
「アホなこと言うとらんと、今のうちにハーフエルフを回収するんやァッ!」
漫画みたいな量の鼻血が飛び散るなか、唯一俺の制御下にある左腕を右手に掴まれてしまう。振りほどこうとするが、がっちり掴まれていて抜け出せない。
「暴れるなッ!」
「おぉ……まぁ、ぇ……ごぞッ」
一進一退一体の攻防の末、もう一人の俺はとんでもない行動に出た。
いっ――――いぎゃぁああああああああああああああああああああッ!?!?
やりやがった、やりやがったなクソ野郎ッ!
事もあろうにイカれ野郎は左腕をへし折りやがった。
――くそっ……。
痛みでどうにかなってしまいそうだ。
「逃さんぞッ!」
再びクレアたちへとイカれ野郎が歩みを進めるのだけれど、その足取りは遅々としていた。痛みで目の前がくらんでいるのは何も俺だけではないということだ。
「に、げぇ……でぇ、ぐれぇ」
グニャグニャに歪む意識のなか、俺は必死に声を絞り出した。
そんな俺を、彼らは深刻そうな顔で見ていた。
「リオニスはなぁ、悪鬼みたいなもう一人の自分を抑えようと、必死に戦っとるんや」
「どういうことですの?」
遠くの方から、ブランやアリシアたちの話声が聞こえてくる。
「私には何となく分かる」
「わかるって……?」
自身の首元に手をのばしたクレアに、ビスケッタは小首をかしげている。
「あの時、私の首に手をかけていたリオニスは、たぶん……私の知っているリオニスではなかったと思う」
「そや! 詳しいことを説明しとる暇はないけどな、モルガンが、あの黒ずくめの魔女が言うとったんや。リオニスの中にあいつが……別のナニカが封じられとるって」
「そいつが暴れてるってわけね!」
マーベラスがこちらに向かって一歩前に足を踏み出すと、それに続いてイザークとヒトデも悠然と俺へ身体を向ける。
「ちょっ、お前ら何しとんねん! うちの話聞いとったんかッ!」
「もちろん聞こえていたさシスター! 自分を止めてくれと必死に叫ぶ親友の魂の叫びが、僕には聞こえている!」
「は……? 何を言うとんねん!?」
「これはあたしたちチームリオニスの問題なのよ! そうでしょ? イザーク! ヒトデ!」
「ガキの御守りは骨が折れるぜ。だが、ヒト肌脱ぐのも悪かねぇッ!」
霞む視界の先で、ヒトデが愉快そうに揺れていた。
「僕たちで、チームリオニスの手で親友を食い止めるんだ! ヒルダ! ヒトデ!」
「ちょっ――――」
鬨の声を上げた二人と一匹が、勇ましい顔で突っ込んでくる。
そして――
魔力の波動に当てられあっけなく吹き飛んだ。まるで壊れたピンボールみたく岩壁にぶつかった彼らが、無常にも地に伏せる。
「あちゃー、だから言わんこっちゃない」
「……オイラ、引き返して良かったじょ」
「ホッとしとらんと、さっさとあれを回収してここからずらかんでッ!」
風船みたいに膨らんだタコが気絶した二人と一匹を頭に乗せ、ブランたちと共に走り出す。
「でも、一体どこに逃げますの!」
「知らんッ!」
「知らんって、いくらなんでも無責任だッ! アリーに何かあったらどうするつもりだ!」
「今はそないなこと言うとる場合やないやろ!」
「最初の塔に逃げ込むというのはどうだ? 連絡橋を落としてしまえばさすがにリオニスも追ってこれないだろ」
「それや!」
「名案ですわよ、クレア!」
「げっ!? もうすぐそこまで追って来てるんだじょ!?」
ダンジョン内を懸命に走る彼女たちを、俺の肉体を乗っ取ったイカれ野郎が追いかける。俺は何とか別の部位を取り返そうと意識を集中させ、左足首の感覚を取り戻していた。
「貴様ァッ――!」
急ブレーキをかける俺に怒りをぶちまける。
――あっ、よせぇッ!
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―――
信じられないことに、イカれ野郎が左足首を斬り落としたのだ。
――何考えてんだよ、この野郎ッ!!
気がどうにかなってしまいそうだ。痛みで目眩がするし吐き気もする。
――くそったれぇッ!
目を覆いたくなるほどの血が流れている。
きっと今の俺の顔色は真っ青で、正真正銘のゾンビ野郎になっていることだろう。
「待てぇッ――!」
大幅に速度が落ちたことでクレアたちが遠ざかっていく。
―――ドーンッ!!
重々しい響きとともにダンジョン内が揺れた。連絡橋から黒い煙が一すじ薄くなびいていく。
――でかしたぞ!
どうやらブランが橋を破壊したようだ。
ひどい出血でフラフラなうえ、片足首を失っている今の状態では向こう側に移動することは不可能だろう。
そう思ったのだが、
――うそだろ!?
片足で地面を蹴りつけた俺は、弾丸となって空を駆け抜ける。
「……その距離を跳躍って、いくらなんでも……反則やろ」
「リオニス……貴方、真っ青ですわよ」
「アリー、離れてッ!」
度の合わない眼鏡を掛けているみたいに、ひどく視界がぼやける。かろうじて見えたのは、アリシアを守ろうと杖剣を構えるビスケッタ。それと、俺の前に立ち塞がるクレア。
「あ、危ないんだじょ!」
「クレア、いけませんわ!」
アリシアたちの声を背に対峙するクレアが、儚げに微笑む。
「もう帰ろう、リオニス」
けれど、もう一人の俺に彼女の想いは届かない。
無情にも振り上げられた杖剣に、アリシアたちは目を伏せる。
――カラン。
そして一時、甲高い鉄の音が幾重にもこだまする。
「あぁ……あ………ぁ」
意識が無くなる寸前、俺はとても柔らかい感触と、甘い花の匂いに包まれていた。
「おかえり、リオニス」
優しい声が、魂にしみこむように消えていく。
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