第55話 ラスボス
「……やはり脆弱な人間の身体は重いな」
顔つきや雰囲気が先程までのアレスとはまるで違う。
眼前の彼の精神は地獄の王は一人、
指の動きや関節の動きをたしかめるアレスが、首を鳴らしながら鉄の壁すら射通しそうな鋭い視線を向けてくる。
一刹那、アレスの姿が消えた。
「――――ッ!?」
アレスの体を操る
「ほう、これを防ぐか」
「不意打ちとは卑怯ではないか!」
「吐かせ。純粋な殺し合いにルールなど不要。ただ斬ればいいだけ」
「なっ!? この野郎ッ!」
熾烈な打ち合いは一秒間に十二合、計六十回以上に及ぶ激しい剣戟の末、俺たちは互いに距離を取った。
――こいつは……ヤバいな。
「この肉体ではイマイチ調子が出ぬ」
鈍った身体をほぐすように肩をまわすアレスが、冗談みたいなことを口にする。
おいおい、今ので不調なわけ? それはいくらなんでもチートが過ぎないか?
いや、まあ……チートなラスボスたる俺が言えた事ではないのだが……。
にしてもだ、いきなり史上最強ラスボス対決みたいになっているではないか。
「ぐっ……うぅッ」
内側で燃え広がった炎の勢いが増している。このままではいつまで正気を保っていられるか……。
涼しい顔のアレスとは異なり、俺は湯気が立たんばかりに汗まみれ。ぬぐってもぬぐっても汗が滴り落ちてくる。水から引き上げられたゴムボールみたいに顔中汗だらけだ。
「ちょっ――ブグゥッ!?」
一瞬の油断だった。
汗が目に入り視界がぼやけたわずかな時に、電光のごとくアレスが飛んできた。首を狙うように放たれた一閃を、俺は間一髪剣身で受け止めることに成功した。
直後、横腹に衝撃が走り、視界がぐらりと揺れる。続けて2発、3発と黒い拳が飛んできた。まるで血に飢えた蝙蝠の大群が一斉に群がるように、次々と襲いかかってくる。
4発、5発、6発……。殴られた回数を覚えていたのは、20発くらいまでだった。口の中が鉄の味でいっぱいになり、少しずつ意識が薄れていく。全身から力が抜けていく。自分が立っているのか、寝ているのかわからない。それでもモルガンが操る巨大な拳は、攻撃の手を緩めることはない。
「あらあら、まぁまぁまぁ。とても頑固ね。けれど、いつまで抑え込んでいられるかしら?」
途切れそうな意識のなか、嘲笑うような声がはっきりと聞こえた。薄目で見たモルガンの顔はベールが邪魔で見えなかったけれど、たぶん俺を見下すように笑っていたに違いない。
「ぶぅはッ―――」
俺の体は岩壁を突き破り、一際硬い岩壁に叩きつけられた。それでも魔女が手を止めることはない。
壁に埋もれて動けない俺に向かって、魔女は何度もハンマーのように巨大な拳を叩きつける。容赦がない。
やがて破壊音とともに壁は砕かれ、気がついた時にはダンジョンの外に放り出されていた。
「……あ、ぁああ………」
浮遊感に包まれた俺の体は静かに落下、闇へと吸い込まれていく。
「――――」
――俺……死ぬのか?
そう思った刹那、意識の内側で誰かに肩を掴まれた。グッと後ろに引っ張られる。反動で闇に臀部を打ちつけた俺の頬に、生暖かいしぶきが跳ねる
「何がどうなっているのだ? ……ってなんだよこれはッ!?」
跳ねた液体は水などではなく、赤黒い血だった。
「……ここは?」
ダンジョンから弾き出されたはずの俺は、気がつくと真っ暗な空間にいた。そこは何処までも血の浅瀬が続いた、生臭くて孤独を具現化したような不気味な場所。
「え……!?」
ふと、何か恐ろしいものを感じて顔を上げると、全裸の男が俺の横に立っていた。
――なんだ……こいつ!?
全身に包帯を巻きつけた男の身体からは、顔を背けたくなるほどの腐敗臭が漂ってくる。雑に巻かれた包帯の隙間からは、火傷によって爛れた皮膚が見えていた。
「がぁわれぇ……」
「!?」
邪悪な眼で、横目に俺を見下ろしたミイラ男が潰れた声を発する。
血も凍るような不気味さに、全身の血が一気に冷えわたり、動悸が高まる。
恐怖、怒り、憎しみ、ありとあらゆる負の感情を明確に示すモノがこの世に存在するとするならば、俺は迷わず眼前の男を指差すだろう。
「あっ、ちょッ――!?」
立ち上がり、闇の中に消えゆく男を呼び止めようとしたのだが、
「ど、どうなっているのだ!」
足下から無数の鉄棒が行く手を阻むかのごとく生えてきて、あっという間に俺を取り囲んで檻となった。
「閉じ込められた!? ふざけんなよッ!」
すぐに杖剣で鉄格子をぶった斬ってやろうと思ったのだが、「――!?」手にしていたはずの杖剣がスッと消える。比喩などではなく、本当に手から消えたのだ。
ならばと、俺は手のひらを突き出して魔力円環を行ったのだけれど、何も発動しない。そもそも
――そこで見ていろ。
「!?」
何処からか、あの男の声が聞こえてくる。
「眩しッ!?」
暗闇に眼もくらむほどの輝きが放たれる。
強い光によってくらんだ目の網膜には、閃光と点滅する星が飛び交う。やがて視界には
「なんだよこれッ!?」
そこには闇に落ちていく自分自身の姿が映し出されていて、とても不思議な感覚に陥る。
まるで夢でも見ているような気分だった。
「あっ!」
外の世界の俺は気を失っているらしく、眠ったように落下している。
しかし次の瞬間には、カッと目を覚ます。空中で身を翻した俺は、手のひらを真下に向けて炎を放つと、ジョット噴射のように舞い上がっていく。そのまま急上昇した俺は巧みに炎を操り、放り出された大穴からダンジョンに戻っていく。
「あらあら、やっと会えましたわね、リオーニス」
「………」
「まぁまぁまぁ、随分探したのですよ?」
「………」
待ち構えていたモルガンには目もくれず、もう一人の俺は誰かを探すように睥睨している。無視されたモルガンは不機嫌そうな仕草で片手を上げた。
すると、黒い拳の群れが一斉に襲いかかってくる。
「危ないッ!」
思わず声をあげてしまった俺とは対照的に、もう一人の俺は動じることなく歩きはじめる。
「……なにを、したんだ?」
飛び交う拳が次々と独りでに燃えはじめ、見る見るうちに灰と化していく。
何事もなかったかのように歩くもう一人の俺は、そのままモルガンの横を通り過ぎた。
「……あらあら………まぁまぁまぁ。生まれ変わっても、貴方はわたくしを苛つかせるのね」
素早く手を払って魔法陣を展開させたモルガンは、ゾッドを消し去った時と同じ特大サイズの手を瞬時に召喚する。
「あらあら、まぁまぁまぁ。わたくしを無視した罰ですわッ!」
背後から特大サイズの黒い手が迫ろうとも、もう一人の俺が歩みを止めることはなく、振り返ることさえしなかった。
「ええ、ええッ! グチャグチャに潰れなさい!」
鷲掴みにすべく掴みかかってきた手が直前で発火。もう一人の俺に触れることすら叶わぬまま、灰となって崩れ落ちていく。
「――――うぐぅッ!?」
すまし顔で別ルートに移動するもう一人の俺の背後で、モルガンは何かに押さえつけられたように両膝をついていた。
「あれは!?
もう一人の俺は振り返ることなく、正確にモルガンへと重力魔法を発動していたのだ。それも無詠唱で……。
――あのモルガンが、手も足もでない!?
その事実に、俺はただただ驚愕するしかなかった。
「これが……チートなラスボスの実力なのか」
手をのばすモルガンのことなど気にも留めず、もう一人の俺は幾重にも空いた穴の先を見据えている。
すると足下に広がる血溜まりが沸騰したみたいに泡立ちはじめた。
「熱ッ!?」
地獄の釜茹でのごとく滾る血の池にあたふたしていると、
「―――いぃッ!?」
耳の穴に針を突き刺されたような、暴力的な声量に襲われる。
俺は咄嗟に両手で両耳を塞ぎながら、獣然とした雄叫びを上げるもう一人の俺に目を向ける。
「アレェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエスッ――――!!!」
怨嗟の咆哮を響かせる彼の視界の先には、
「……フフッ」
かすかに口端を持ち上げたアレスが、正真正銘チートなラスボスとなった俺に人差し指を向ける。指の腹をゆっくり真上に向けたアレスが、挑発するように第二関節を二度曲げた。
「うそだろ!?」
しかし、次の瞬間にはアレスの姿はそこにはなく、憤怒に燃える彼の顔が
もう一人の俺が神速とも云えるスピードで、アレスの顔面を殴り飛ばしていた。
「ぐッ……ぶはぁッ………な、なんだ、いまのはッ」
粉塵を舞い上げては岩壁に身体をめり込ませるアレス。
きっと彼は想像もしなかっただろう、地獄の王たる自分が砲弾のように吹き飛ばされる姿など。
「バカッ! 何をやっているのだ! 早くそこから逃げろッ!!」
ただ信じられないと息を呑んだまま唖然となる
「――――ぶべぇばッ!?」
フラフラの身体でなんとか壁に手をつき立ち上がるアレスの側頭部に、容赦なく強烈な飛び蹴りが叩き込まれる。
自分の身に何が起こっているのかも分からないであろうアレスの身体が、派手に砂煙を撒き散らしながら石切りのごとくダンジョン内を駆け抜ける。
「アレス!?」
「ちょっと君、何をしてるの!?」
吹き飛ばされた先には深手を負ったイザークたちがいて、岩壁に激突した仲間の不甲斐ない姿を目にしたニーヴは不快感をあらわにする。
「本当に君って役に立たないよね。モルガンは何をしているのよ――って、なによ君のその姿ッ!?」
変わり果てたアレスの姿に驚きを隠せないニーヴやアリシアたちだったが、その表情がすぐに恐怖で蒼くなっていく。
彼らは肌で感じているのだ、ダンジョンの奥から身の毛もよだつ不気味な魔力をまとったナニカが、近付いてくることを。
「リオ……ニス?」
あまりの恐怖で目をふさぐことさえできない彼らが目にしたものは、俺の皮を被ったナニカ。
邪悪を具現化したような
「全員そこから離れるんやァッ!」
金縛りあったかのように身動きができない彼らに、駆けつけたブランが危険を伝える。
「これは……一体なんなんですの!?」
「リオニスはどうなっているのだ!」
「あれは自分らの知っとるリオニス・グラップラーやない! 見ての通り悪鬼そのものやッ!」
「悪鬼って……」
困惑するビスケッタをよそ目に、傷だらけのイザークとマーベラスが抗議の声を上げた。
「悪鬼だと! 僕の親友に向かってそんな言い方はないだろ!」
「珍しく意見が合うじゃない。生徒に助けてもらっておきながら随分な言い草ね!」
チームメイトを侮辱されたと思い込んだ二人が、挑むような目つきでブランを睨みつけた。
「そんなこと言ってる場合じゃないんだじょ! あれはどう見てもやばいんだじょ!」
「タコルの言う通りだぜ。お前らの知ってるリオニスはあんなにおぞましい魔力をまとっていたか? 少なくとも、俺さまの知るあいつはあんなんじゃなかったぜ」
深海魚な試験官二匹に言われ、改めてもう一人の俺に目を向けた二人は、背筋に一時に氷をあてられたように身震いを起こす。すでにブランの方へと移動していたクレアたちのあとを追うように、二人も急いで移動を開始する。
「殺すッ……貴様だけはこの手で殺してくれるッ!」
息もできぬほどの衝撃にもだえ苦しむアレスの元へと、凄まじい魔力の鎧をまとった俺が接近。例え相手が地獄の王の一人とて、相手は史上最強のラスボス――リオニス・グラップラー。敵うはずがなかった。
「くそっ、頼むから止まれ! ……止まれってくれよ」
このままでは本当に俺がアレスを殺しかねない。そんなことになれば残りの人生を牢獄で過ごすことになる――いや、死刑台までまっしぐらだ。
そんなのは絶対にイヤだ!
「誰か、誰かいないのかよ!」
殴っても引っ張っても押しても壊れない鉄格子に焦燥感を募らせていると、一人の少女がもう一人の俺に傲然と立ち向かう。
「ようやくわっちと――――ッ!?」
「――――」
「え……? あっ、ちょっ――ちょっとッ! 嘘でしょ……」
けれど、もう一人の俺は彼女に関心を持たない。それどころか透明人間かのようにニーヴの横を素通り。まるで眼中にない。
「……何よそれ、そんなのって……」
うつむいた彼女の顔は影が落ちて見えなかったけれど、激しい怒りに肩が震えている。
「わっちは……ずっと君に認めてもらう為だけに、それなのにッ!」
胸腔から爆発するような声を発した彼女が、もう一人の俺を追いかけるように身を翻す。
怒りに燃えながらも射殺すように睨みつけるニーヴを、それでももう一人の俺は歯牙にもかけないようすで通り過ぎていく。
もう一人の俺の目には、アレス・ソルジャーしか映っていなかったのだ。
しかし、そんなことはきっとニーヴ・シャレットにとってはどうでもいいことであり、無視されたという事実だけが火種となっては燃えて、彼女の内側で激しい怒りに変わっていったのだろう。
「うわああああああああああああああああああああああッ――――!!!」
トラウマでも思い出したかのように、前のめりとなって奇声を上げながら走り出すニーヴ。丁子色の瞳には素知らぬ顔でアレスへと突き進むもう一人の俺が映っていた。握りしめた杖剣を感情のままに振り上げた彼女の一撃が標的の背中を捉える。
「――――!?」
されど、次に聞こえてきたものは聴覚を引き裂く鋭い一太刀でも、ましてや男の断末魔などでもない。
ドォーン、ドォーン、ドォーンという轟音がまるで艦砲射撃みたいに続き、ダンジョンの壁を次々と破壊していく。
「……ニーヴ」
砲弾となった少女の名を口にした俺は、はるか後方で意識を手放した彼女を見て絶句する。
「……なんだ、あの威力は!?」
「……信じられませんわ」
その光景を離れた場所から見ていたクレアたちも、規格外な力を前に言葉を失っていた。
「裏拳……ただ殴っただけで? な、なんだよあれはッ!?」
違う。
根本的にあいつと俺とでは強さのベクトルが違いすぎる。
あれこそ、あのチート過ぎる強さこそ、俺の知るリオニス・グラップラーなのだ。多くのプレイヤーに設定ミスと叩かれまくった史上最強のラスボス。
敵うはずなどない。
「逃げろアレス! お前一人では絶対に勝てる相手ではないッ! 頼むから逃げてくれ! 俺を殺人犯にしないでくれッ!!」
叫んでも、願っても、祈っても、どうにもならない現実が押し寄せてくる。
「ゔぅ……ッ」
地面を虫のように少しずつ這って移動するアレスの脇腹を、もう一人の俺は非情にも蹴り上げた。重量感のある鈍い音を伴いながら、アレスを受け止めた岩壁は放射線状に亀裂を走らせる。
「貴様さえ、いなければッ!」
苦悶の表情を浮かべて岩盤に倒れ込むアレスの横っ面を、もう一人の俺は無慈悲にも踏み抜いた。
「ぐぅわああああああああああああああああああああああッ――――」
耳を塞ぎたくなるほどの絶叫がこだまする。ギシギシと音を立てながら歪むアレスの顔と、ひしゃげた地面に目を覆ってしまいたくなる。それはまさに鬼畜の所業。
「もう……よせッ………」
見るに堪えない光景だった。
「あッ、ああああああああああああああああああああああああッ――――」
「へ……?」
――あれはッ!?
悪魔然としたアレスの姿が元に戻っていた。
痛みに耐えかねた
しかし、それはあまりにも残酷だ。
地獄の王たる
「アレス……」
白目を向いて気を失ったアレスを見て、俺は突然に、その場に膝をつく。関節が無音のまま壊れたみたいに……。
「くそッ! なんでこんなことになるのだッ!」
破滅を回避するためにできる事はしてきた。なのに、それなのに……ナニカに身体を乗っ取られてThe END。
「こんな終わり方ってあるかよッ―――!」
深い絶望感に襲われる。
ぎゅうっと胃のあたりが痛くなった。うつむいた視界の先には、見慣れた男が赤黒い血溜まりに映っている。醜い顔の男だ。
「なんなんだよッ!」
自棄になって拳を振り抜いても、血溜まりに浮かぶ男も、
「え……何をしているのだ?」
誰もが恐怖に打ちひしがれる中、たった一人、毅然たる態度で立ち向かう人物がいた。
「リオニス、いい加減にしないかッ! やり過ぎだ!」
長く伸びた銀色の髪をなびかせた、美しい褐色肌の少女――クレア・ラングリーである。
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