故障6

 すでにサンダルを脱いで部屋に戻り、窓から顔だけ出している彼女の元へ私も足を動かす。視界の端に彼女の家を映しながら。


 彼女を横目で捉えたあの時、口が硬直して言えなかった『どうかしたの?』は歯がくっついたように今も言えそうになかった。感じた恐怖がまだ喉に張り付いているからなのか、それともただ『しんぱいしょー』とまた笑われのが嫌なだけか、その二択さえあやふやにしておきたいと願う自分が今ここにいる。


 まるで誰かに、ベランダで見たものについてはこれ以上考えてはいけない、と忠告を受けたように。


 私が室内に戻ると、彼女は私の先を歩いて廊下を進み部屋に戻る。その足取りに迷いはない。

 その背中を見てもまだ引かない脂汗が、着ていたシャツと地肌をくっつけて不快に纏わりつく。


「………………」

 ふと思い出していた言葉があった。


『私とだけ一回も目を合わせなかったんだよね』


 募る不安や胸騒ぎが連れて来たのは妹のそんな言葉。


 そしてさらに隷属してやって来たのは、昨日だけいつもとは違った彼女の様子で、とるに足らない事のはずだったそれらが小骨のように喉に引っかかって気持ちが悪い。やんわりとした吐き気が胃の奥で波を打つ。


「そういえば、私ベットで寝てた?」


 こちらに振り返って言った彼女に思わずハッとする。気が付けばすでに私も彼女も自室に戻っていて、見慣れたベットを背にして立っている彼女の姿がすぐに視界に入った。


「……あー、うん。私がお風呂上がったらもう寝てたから、ベットまで運んで、私はこっち」

 顎で床に敷かれている布団を差して、気掛かりは一旦心に押しのけて正直に説明する。


「運んだって……、え、どうやって!?」

「ん?普通にこうやって」

 その場で腕を曲げ、宙を抱え、昨晩のお姫様抱っこを一から実演する。

「……そう。あ、ありがとう。でも、私重かったでしょ……。てか変な顔とかしてなかった……?」


 神妙な面持ちから一変、すがりつくような必死な形相で声を裏返す彼女。透けて見える乙女心にこちらも顔をほころばせる。


「いや、全然軽いし、普通だったよ。というか私も眠気まなこだったからよく覚えてないし」

 正直に答えると彼女は肩を下げて「そっか……」と呟く。

「でも私がベット使っちゃうの悪いし、今度はちゃんと布団使わせてもらうね」

「いやいや、いいってそんなの」


 手を振って気にしなくていいからと彼女に伝える。よく見知った相手とはいえお客さんはお客さんなので、自分よりぞんざいな扱いをするのは気が引ける。あとはまぁ、純粋に彼女を大切に思っているからこそ床に寝かせるなんてことはしたくなかった。


「んー、じゃあ」

 わざとらしく一度区切って、ススっとすり足で私に近づき、上目遣いでこちらを見上げる彼女。


「桜ちゃんと私が一緒のベットで寝る?」 

「……いいかもね」

「なっ!?リアクションがイメージと違う……!?」

 両手で口を押さえながら私の顔を見る彼女は、眉根を歪めて未知の生物にでも遭遇したような反応。


 どんなリアクションを想定していたのか問いただしてみたい気もしたが、それ以上に、油断しているとお腹の底から忍び寄ってくる吐き気にも似た不安をどうにかしたいという欲求が強く、今は少しでも彼女の側で気持ちを落ち着かせたかった。

 だからあっさり肯定したのは決して胆力がついたからではない。


「……本当に一緒に寝る?」

「あたぼう」


 しかしお相手は何を勘違いしているのか、目を白黒させてその場で固まっている。その様子に、さっきまで抱えていたどす黒い恐れが少しだけ緩和され、薄まり、胃の底がすっと空いていく。


「よっこいしょっと……、ほら早く寝直そう?」


 床の上の布団をいろんな意味で踏み台にして、先にベットへと潜り込み、掛け布団を半分開いて彼女を誘導する。


「う、あ……、は、はい」

 表情と声と身体、すべて硬めて開いた布団の中に入り込み、同じ枕をシェアして私の隣に寝そべる彼女。これじゃまるでいつもと反転したみたいだなと、口の中で笑ってみる。


「………………」

 しかし彼女は背中をこちらに向けたまま、一向に私の方へ向こうとしない。私の視界に映るのはただ小さく上下する肩だけだ。

 彼女の体温を間近で感じるという第一目標は叶ったが、それだけじゃ満たされない、心に巣食った暗らがりを埋めたくて、さらに私は手を伸ばす。


「えい」

「うにゃぁ!」


 急に触れた私の手に驚き、ネコ科の動物のような声で鳴いて、布団の中で身体を小さく跳ねさせた彼女。私は構わずその首元に片手を回し、自分の身体を後ろからピタッとくっつける。


 うん、こうしたほうが断然温かい。


「さ、さ、桜ちゃんって抱き枕が無いと寝れないガール……?」

「今日だけはそうかもしれないガール」

「そ、そう」


 一言呟き彼女は黙る。その表情を見ることは出来ないが、私の身体の中でどんどん上がる体温から察するに、相当面白い顔をしているんじゃないかと想像できる。


 少なからず、先刻ベランダで見てしまったあの異様な顔とは違うはずだ。

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