夢想
……だったらいっそ、嘔吐物の処理なんてしてないで、今すぐにでも私は私を解放してあげたっていいんじゃないでしょうか。
そう考えると、ゲロ溜まりのような私の心に一筋の光線が差したような気分になりました。しかし結局のところ、粘度のある液体に足を取られて、私は沈むことしか出来ない。
当時、まだ小学生の私には自死という選択肢はありませんでした。
私の身体も心も、果てのない地獄の底へとどんどん沈んで行くばかりで、自分にとっての救いというものが根本から理解出来なかったのです。
悪夢に出口は無く、もう二度と意識は覚醒しない。頭の片隅で幼い私がぼそりとそう呟いて、あのアパートとこの教室こそが私の現実なのだと私は悟ります。
しかし、そう諦観していたところで、
一人の女の子が、遠巻きに見ていた軍団からふらっと抜け出し、トコトコ歩いてこちらへと寄ってきました。
「……手伝うよ」
なんて言って。
「へ?」
ありえるはずのない声掛けに一瞬それが幻聴かと疑い、顔を上げて声がした方へ首を向けます。
「……大丈夫?」
「………………」
しかし、その声は幻聴などでは無く、確かに声を掛けた主はこの場に存在していました。
そして、その女の子の顔だけは他の人物と違い、靄なんかで覆われてはおらず、はっきりと容貌を露わにしています。
「あっ」
私はその子の顔を見て、はっきりと思い出します。
そうでした。夢には限りがあり、いつか終わる。出口の無い悪夢なんて存在するわけがない。
そして、私の悪夢のゴールはいつもこの女の子であるということを、今はっきりと思い出すのです。
「これは、やっぱり夢だね」
「え?」女の子は目を丸くして、口をポカンと開きます。
その顔は今の彼女もよくする表情で、この少女の姿から髪だけ伸ばせば現実の彼女が出来上がるのではないかと思うほど馴染みのあるものでした。
「ごめん、なんでもないんだ」
「……?」
彼女は不思議そうに首を傾けて前髪を揺らします。
実際あの時こんな会話をしたわけでは無いので、いま目の前に映るこの顔は記憶の再現などでは無く、完全に私のイメージが作り上げたものなのでしょう。だったら今の彼女とこの少女が似るのも必然です。
しかし、最悪な気持ちも含め、途中までは確かに実際にあった出来事で、とある日、まだ小学三年生の頃の私が嘔吐をして、それを教室の中で彼女一人だけが一緒に片付けてくれたことは真実なのです。
「………………」
もはや自分の汚い嘔吐物なんかには目もくれず、ただこちらを見つめる少女の顔だけに視線を合わせます。
そのあどけない目元も、変わらない瞳の大きさも、今より少し低い鼻筋も、相変わらず可愛らしい桃色の唇も、全部が全部、色褪せないまま私の記憶の中枢には焼き付いています。
私はこの日以来、この時声を掛けてくれた女の子の顔を一日たりとも忘れたことはありませんでした。
そしてなんの運命か、私とこの少女は、この後再会を果たします。高校生になってから、またこの町で。
高校で再会したのは本当に偶然たまたまで、私はこの後すぐに母親とも離別して、今いる家とは別の人の元に引き取られますが、結局そこでも上手くいかず、中学生の頃、本堂町家に引き取られ、またこの町へと戻ってきました。そしてこの町唯一の高校へ上がり、偶然にもこの時、小学生の頃、自分のゲロを処理してくれた女の子と再開を果たすのです。
私は入学式で彼女の顔を見て、すぐにそれが、あの時の少女だと気が付き、その日のうちに声を掛けました。はじめましてと。そして彼女の方も元気にはじめましてと挨拶を返してくれました。
彼女はその時、私とは初対面だと思っていたのです。
私もそれは承知の上でした。いえ、むしろ分からなくて当たり前なのです。
小学生の私と、高校入学時の私とでは見た目がまるっきり別人なのですから。
小学生の頃の私、つまり『今』の私は、病的に痩せていて、身体も傷だらの垢だらけ。髪もまともに手入れなんてしておらず、たまに自分でハサミを入れていただけなので、常にざんぎり頭のようなひどく無造作な髪型で、男か女かの区別もつかなかったことでしょう。そして当然そんな私に友達なんて一人もいるわけがなく、教室内では私の名前を知っている子供の方が少なかった筈です。
なので私が誰なのか、彼女は分からなくて、むしろ気付かれなくて良かったと、入学初日の日、私は本気で思いました。
私の過去は、私を引き取って、きちんとした教育を施してくれた本堂町家以外の人間には誰にも明かさず封印すると、自分の心に固く誓っていたのですから。
……まぁ何事にも例外はつきものですが。
しかし、私の何を賭けても言い切れるのは、この先も彼女が私の過去を知ることは永遠に無い。それだけは私が守りきると誓った、湾曲した真実なのです。
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