夢想
その声を聞いた途端、私の足は急発進を始めます。
「おやや?」
勝手に動く足がどこへ向かうのか答えが分からないまま、ただ神経の伝達に身を任していると、私の身体は教室の後方、掃除ロッカー目指して直進して行きます、そして素早く扉を開け、慣れた手つきで中からバケツと数枚の雑巾を取り出し、片手でそれを持って遠巻きに様子を伺う子供達の前を突っ切り教室を後にします。
ひんやりとした冷気が充満する廊下を歩きながら、そうか、大人の言うことは絶対なんだと、迷うことなく動き続ける自分の足の、力強い歩みによって理解しました。
自分で汚した床を、自発的に掃除をしようというわけではなく、あの大人に片付けろと言われたから、私は掃除の準備をしているのでしょう。大人の司令は絶対に守らなくちゃいけないというルールが私の中には深々と刻み込まれているようで、今の私は律儀にそれを守っているみたいです。その証拠に、脳に足を止めろと指令を出ししてみてもこの足取りは一向に止まりません。
仕方なく自分の規則に従い、女子トイレでバケツに水を組んでから、重量が行きの何倍にもなったバケツを両手で持って、引きずるように重心を前に後ろにフラつかせながら教室へと運びます。
「あっ……」
そうしていると、自分の細い腕が目に入り、無数の青あざや、何かがぶつかって赤く腫れ上がった跡などが点在していることに気が付いてしまいます。
「いっ」
その傷跡達を目視した途端、全身が打ち身の後にようにズキズキと痛みを帯び始めて、教室へ向かう足取りも一気に重くなります。夢だったはずのこの世界で、微細な感覚が、一歩進むごとに私の身体へ戻りつつありました。
やっとの思いで教室に到着した頃にはすっかり別の場所にあるはずの私の現実と、この悪夢との境目が見極められなくなっていて、私の頭の中はただ早く掃除をしなければという強迫観念で埋め尽くされていました。
自分の吐瀉物の前に立ち、バケツを置いて雑巾を絞ります。それを見る教室中の刺さる視線に、さっきまで感じなかったはずの、まるで私を締め上げるような攻撃性を感じ取ります。重く苦しい空気に本当に息が詰まりそうでした。
「……………………」
それでも黙って吐瀉物に手を伸ばし、上から雑巾で拭いて行きます。
鼻の奥に入り込む饐えた生臭い匂いに、余計に胃の中が逆流を起こしそうになるも、なんとか喉を締めて我慢をしました。
灰色だった雑巾が私の吐瀉物を吸い取ってさらに暗い色に染まっていくのを見ながら、私はただひたすら自分の手を動かします。
周りの視線を感じないようにするため、頑なに床に散らばる吐瀉物だけに目を向けて、極力頭を真っ白にしてただひたすら。
少しでも余計なことを考えたりしたらダメです。この現実のことをほんのちょっとでも深く理解してしまったら、きっと私は耐えられない。だから誰かの命令で動く機械になることに徹しなければなりません。
張り詰めた空気の中、少し指で弾けば端から瓦解してバラバラに壊れてしまいそうなほど不安定な自分の心を、なんとかギリギリ形を保って、ヒビが入って、補修しようとして、でもやっぱり欠けて壊れて、今に限らず、私はずっとそういう日々に身を置いていました。だからきっとこれからもずっとそうなのだろうと思います。そしていつか身体も朽ち果て嘔吐さえも出来なくなる。その時はあのクソまずい猫の餌も食べなくて済むのでしょうね。
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