夢想

夢想

 

 深い眠りに落ちる時、私は夢を見ます。 


 世界はただ真っ暗で、最初は自分が誰なのか把握出来ず、ぼうっとするだけの時間が続きます。しかし身体の感覚がまるで無い事に気が付いて、頭の中で状況を整理した結果、今いる場所が現実とは乖離しているという事を私はすぐに理解します。


「夢ですね、これは」


 さらに呟いた独り言が敬語口調だった事により、これが過去の再現だと気付きます。


「…………あ」


 そして最後に、欠けていた情報が一挙に私へと押し寄せて来ます。その筆頭として思い出されるのが、


「私の名前は本堂町桜。いいえ、この頃の私はまだ小学生なので、旧姓、港町桜。ですね」


 コバルトブルーの入江が情景として浮かぶ爽やかな苗字だなあと、鼻で笑います。長々と独り言を呟いているのは、夢の中だと意思を持った進行役が自分しかいなくなるので、口に出して場面の説明をする必要がある気になるからです。夢というのは最早私にとっては一人芝居みたいなものですから。


 状況の理解が済んだところで、真っ暗だったはずの世界に、ぼんやりと無機質な光が灯り始めます。次に、視線が随分低い事に違和感を覚え、首を曲げて自らの身体を見回してみます。


 腕、肩、胸、腰、足、どれも子供の体躯をしているのを視認して、最後に手をグーパーして「やっぱりですね」確信しました。


 私は夢を見ています。自分がまだ小学生だった頃の夢を。思い出そうとすれば、さっきまでうちに泊まっていた彼女のことがすぐに思い出せるので、確かこういうのは明晰夢と言った類の夢のはずです。


 口調が敬語なのは当時の私がそうだったからというルールに沿っての事なのでしょう。この夢を見る時、私はいつも、今では遠くなった敬語を使っています。


「いつもの夢、ですね」喉から出す声も今より幾分あどけなく、この頃はしょっちゅう叫んでいたせいか、醜くしゃがれていました。


 そう、この夢自体はなんら珍しくも無い、いつもよく見る夢の一つです。


 お医者さんによれば、私のこうした昔を想起する夢さえも、過去が忍び寄り私を蝕む精神的な病気の症状らしいのですが、毎度見ている悪夢なんてものは日常の一部として生活に溶け込み、薬さえ服用していれば生きてゆくのに大した支障はきたさないのですから、気にすることもないのです。


 と言うわけで、さあさあ、黙って再現VTRのご鑑賞と洒落込みましょう。


 垢で汚れた自分の手を側頭部にピタッとくっつけて、指をずぼっと頭皮に食い込ませます。そしてそのまま脳の中のスイッチに指先で触れて、再生ボタンを「ポチッとな」


 自分でこうする事によって、私の夢は次のフェーズへと進んで行きます。まずその一番最初に現れるのが背景。


「……………………」


 狭いアパートの一室。ヤニで汚れたボロボロの茶色い内壁に、水垢の目立つ銀のシンク、ぴちゃぴちゃ音を鳴らして蛇口から落ちる水滴、カーテンの隙間から射し込む西日、そして物が散乱して木目の見えなくなった床と、これらを内包している狭いワンルーム。物と言っても化粧品を除けば残るのはほぼゴミです。


 内訳としては、中途半端に一口分の飲料水が中に残ったペットボトル、こびりついたソースがカッピカピになっているコンビニ弁当の容器、丸められたティッシュの残骸と、その付近にある薄いビニール袋の中には、乾いて赤褐色になった経血が付着している生理用のナプキンが丸めて詰めてあります。でもあれは私の使用したものではありません。当時の私はあんなものを使わせてもらえはしなかったのですから。


「ほんと、いつまでたってもよく覚えているもので」

 ため息交じりに、愚痴を漏らします。


 ここは私が子供の頃に住んでいたアパートです。


 私の夢の基盤にあるのは自分の記憶で、色褪せない私の記憶がこの場所を再現しているのです。


 普段、現実世界で生活している時は思い出そうとしてもセーフティが掛かってぼんやりとしか想起できない過去の記憶が、眠ってしまうと、こうも簡単に脳の底から浮上してくるのですから、人の記憶領域というのは摩訶不思議なもので、脳神経というのは御都合主義なものです。


 別段ここで考えることも無いので、そんなことをとりとめもなく思いながらゴミ貯めの部屋を観察していると、簡素な四脚テーブルの下に、未開封のまま置かれている無数のキャットフードの山が目に止まります。


 主に缶詰のものが多いですが、中には茶色いドライフードや、細長いジュレ状のものもあり、バリエーション豊富なことが分かります。


「げえ……」自分の舌を口から出して外気に触れさせます。


 夢の中なので嗅覚も味覚も存在しないはずなのですが、そのキャットフードを見た途端、封印していたそれらの匂いと味を反射的に脳が引っ張り出してきてしまったらしく、一瞬頭が痛くなるくらい生臭くぐにゃりとした食感が舌先に再現され、私は辟易しました。


 私が昔住んでいたこのアパートにはニャンコどころかペットの一匹さえもいませんでした。


 私の認識では。


 なので、あのキャットフードは私の主食で栄養源の一つです。


 当時の私は紛れもなくこのキャットフードに生かされていました。


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