夢想

 しかし懐かしの味を思い出したところで、別段やっぱり思うところも無いので、ぼうっとその場にただ突っ立って、他人事のように場面が進むのを待ちます。

 そうして適当に辺りを見渡して時間を潰していると、夜になってカーテンの隙間から差し込む日差しが完全に途絶え、そこでようやくこの夢は次の動きを見せます。


 ガチャガチャガチャと大仰な音を立ててひねられる金属の劣化したドアノブ、そして軋みながら開く、立て付けの悪い玄関の扉。


 この瞬間だけは意図せずして無意識に、私の凍てついた胸の中がぎゅうっと縮こまり、胃が下から絞られるように吐き気が喉元へと上がってきます。しかしここを超えてしまえばあとは心を捨てて鑑賞しているだけなので、今はとにかく我慢です。


 自分の吐き気とせめぎ合いをしていると、開いた扉の奥から一人の人物が部屋へと入ってきました。


「…………………」


 低い視線で捉えるその人は、とても大きい図体をしていて、服も黒いため、恐ろしい怪物か、はたまた悪い魔女にも見えました。肝心の顔は見上げたところで薄靄に覆われているためハッキリとは確認できません。しかし長い髪と白い肌、そして雑多な化粧品の匂いで、女性だということはかろうじて理解出来ます。


「おかあさん」


 勝手に開いた自分の口から出た言葉に、自ら一瞬呆気に取られますが、すぐに腑に落ちて納得させられます。 


 そうです、あれは私のおかあさんです。


 今私が身を置いている本堂町家の血の繋がっていない母や妹とは違い、血縁関係がちゃんとある、私を産んだ実の母です。


「お母さん」


 脳で考えるより早く、その姿を目視しながら私の口は母を呼び続けます。


「お母さん」まだ呼ぶ、呼ぶ。止めたくても私には止められない。


 母を呼ぶ私の声は、嫌にあどけなさが押し出されて甲高く、まるでその言葉しか知らないかのように同じ声色で壊れた機械のように連呼します。

 

 中身がスカスカなその言葉と同様、呼んでいる子供の方も、ちょっと足りてないんじゃないかと思うほど、声には感情が一切籠もっていません。事実、この頃の私には何もありませんでした。知識も知性も知力も知育も。


「お母さん」


 なんてイラつく子供の声、そう自分でハッキリ自覚したところで、いつの間にかすぐ目の前まで迫っていた黒い影が、吹き消した蝋燭の火のようにゆらり大きく揺れました。そして、


「き%$鬼ーあ蛾子何?!h母k&%”柘#人ご!!」


 口を開いて肩を揺らし、声高らかに笑うように、はたまた金切り声で叱咤するように、何かをほざきたくっています。こちらに関しては感情はバッチリ籠もっていましたが、色々足りていないのは疑う余地がありません。とはいえあくまでこれは私の夢。実際の母は生まれも育ちも日本の日本語堪能系日本人なので、現実ではきちんと言葉を話していたはずです。清らかな日本語とはとてもかけ離れていたように記憶していますが。


「あ4’%榴¥尼!??」


 ベールに覆われた頭部がずいっと私の顔に近づき、開いた口からは相変わらず不明瞭な言葉が吐き捨てられます。距離が近づいたせいで唾液の塊が私の顔にべちゃりと付着し思わず目を細めたところで、母の幻影がものすごいスピードで私の身体へと伸し掛かってきました。


「ギァッ」


 押しつぶされる自分の身体から、動物の鳴き声のような短い音が漏れ出します。体勢を崩し、その場で倒れたせいで、骨の出っ張った背中が床と強打し、間に挟まった口紅のような小物が私の背中を刺して鋭い痛みが身体に走りました。痛覚はないのであくまで想像です。しかし母はそれでも構わず、私の身体を押し倒したままその場から動こうとはしません。


「あ五ごごごご、ぎご午語誤誤誤?」

「……………………」


 間近で話す度、生暖かい唾液が顔に飛び散っても、化粧品の粉っぽい匂いが鼻腔を埋めても、私は黙ったまま自分の上に乗っている母をただ見るだけです。

 抵抗という二文字が頭の中に無いのは、昔の私がそうだったからなのでしょう。むしろこの小さい脳の中では『絶対に逆らうな』と赤文字で警告看板が出ています。いっちょまえにストックホルムしやがって。


 仕方なく、何もせずに軋む身体の音を聞いていると、やがて汗ばんだ人肌が私の服の中へと侵入して、全身を弄り始めます。


「あーーー」


 悲鳴にしてはあまりにもやる気に欠ける声を出しながら、自分の下半身から伸びる黒い影を目で辿って行くと、それは母の胴体に繋がっていました。

 

 私の身体を触っているのは、私の母親の手でした。


「さあ、ここまでです」


 手の持ち主を確認した途端、迫る耳鳴りから今いる世界の崩落を直感で感じ取り、ぎゅっと目を閉じます。


 この夢はいつもこの場面で唐突に終わりを迎え、事の顛末までを私に見せることはしません。それは夢の中でもセーフティロックが掛かるくらい自分の中で機密性が高い事柄だからなのか、それとも生涯の恥部を、夢でさえ直視したくない程忌々しく思っているからなのか、どちらにせよ二段階認証というのは本当に大切です。これは現実でも言えることですね。今ではどんなサイトでも二段階認証か基本ですし。


 そんな風に戯言を連ねて遊んでいると、いつの間にやら元いた真っ暗な世界へと連れ戻されていました。夢というのは脈絡も無ければ物質的な壁も存在しないため、私は自分の作り出した世界だったらどこへでも飛べるのです。ただ意思の反映はされないので、自由にというわけにはいきません。

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