慕情19
「だから、多少隣の部屋から変な声が聞こえて来ても、気にしないからな、ねーちゃん!」
「……………………」
白い歯を存分に見せつけてサムズアップを決める妹だが、今の言葉は聞かないことにしておいた。せっかくこの子の善良な心と良識と知らぬまの成長に胸を打たれていたのに、あまりにも足元が崩れ落ちるのが早すぎる。もう少しだけその高潔な心遣いに浸らせて欲しかった。
「ま、まあ、その、うん。いいや、なんでもない」
夕方の時のように何も考えずによろしくと言ってしまいそうになったが、それはそれで盛大にまずいと考え直して口を閉じる。
「はぁ。ま、サンキューな妹」
中身を飲み干したコップを軽くゆすいで戻してから、わしゃわしゃと上から妹の頭を撫でる。私とは血筋が違うせいか、まだまだ身長の低い妹は、上から加わる力にバランスを崩してヨロヨロしながら「ひゃーひゃー」と楽しそうにしている。その姿は中学生どころか幼児のように無邪気で、可愛いやつだなぁと心の中のおねーちゃん指数が満たされた。
「じゃあ、ねーちゃんは寝るぞ。お前もつまみ食いはほどほどにして早く寝るんだぞ」
さっきとは一変した妹の子供らしい仕草を見たせいか、無駄に年上っぽい口調になっていた。そしておやすみと言って冷蔵庫から離れようとしたところで「あっ、ねーちゃん」呼び止められた。
「?」なに。とは口に出さず振り返ってただ首を傾げる。すると妹は眉根を下げて、先に目を細め笑みを作ってから口火を切った。
「あの彼女さんに謝っといてもらってもいいかな?」
「………………」一瞬何について言われているのか分からず、少し考えてみても分からなかったので、ここは口に出して「なんのこと?」と素直に聞いてみる。
『あの彼女さん』が指し示している人物は分かっても、その先の内容についてはさっぱり。妹の中では展開されているのだろうけれど私には何も伝達されていなかった。
「ほら、朝に鉢合わせしちゃったから」
「あぁ」
声のトーンを落として言った妹にその事かと合点が行く。そして意外にそういうのも気にするんだなと、その気遣いにまた知らぬ間の成長を気付かされる。
「いや、堂々と家の前で立ち往生してた私達もアレだったし……」
面と向かって言われると今更ながら気恥ずかしさが再来して来て、口の滑りが悪くなった。
「でも、怒ってたみたいだから」
「……別に怒ってないよ?」
「いやねーちゃんじゃなくて」
「え?」
禅問答のように噛み合わなくなって来た会話に、眉をしかめながら疑問符を浮かべる。ねーちゃんじゃなくて、ってことは後一人しか候補はいなくなるが、そのもう一人だって別に妹に対して怒りを露わになんてしていない。
「いやいや、別に彼女も怒ってなんてなかったよ。だから気にすんなって」
依然としてふざけてる様子の無い妹に、出来るだけ軽い口調でそう伝える。悪気がないこの子に嫌悪をぶつけるほど私も、そしてもちろん彼女も、大人気なくはない。それなりに長い時間を彼女と一緒に過ごして来た私だからこそそれくらいは理解しているつもり。
「んー……、でも夕食ん時、私とだけ一回も目を合わせなかったんだよね」
「え?目?」
アイ?と聞くと、うんと頷いて妹は続ける。
「あれって多分、怒ってるからなんじゃないのかな?」
「……いや、そんな、まさか」
身内からの思わぬ言葉。
それを聞いて、どろりと黒いヘドロのようなものを掛けられたみたいに心の中がどよめきたつ。言いようのない不安みたいものがゆっくり背後から迫っているようだった。
妹の話を勘違いと思えば、早い話それで終わる。しかし人の視線の動きというのは、本人だからこそハッキリ分かってしまう側面があるというのは、誰でもどこかで理解している事だと思う。私が全く気が付かないところで、妹本人が自覚していたっておかしくない。それにこの子にはさっきみたいに他人の機微に対して鋭いところがある。だから頭ごなしに妹の言う事を否定することは出来ない。
じゃあ妹の言う通り、彼女が本当に一度もこの妹を視界に入れなかったとして、それは怒りだけが由来するものなのだろうか?
鉢合わせてしまった当事者の妹はそう思っても仕方がないのかもしれない。しかし今日一日一緒にいた私が、彼女の怒りを一度も感じとっていないのであれば、それを怒っていると決めつけるのも違う気がする。となれば、実際もっと簡単で分かりやすい答えにたどり着くのが必定で、その答えにようやく行き当たった私は、迫る不安から逃げ切ったように心の中で安堵する。
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