慕情17

 服を脱ぎ、ガラッと扉を開いて浴室の中に一歩足を踏み入れると中にはまだ湯気と熱気が立ち込めていた。直前まで彼女が使っていたおかげだろう。その暖かさにやっと気が緩む。


「はぁー……」


 カランを捻って、シャワーを浴びて、汚れやら心の汚れやら邪な己の汚れやらを、下水へ流していく。実際魂に由来する汚れまで落としてくれるかどうかは不明だが、適度に熱いお湯は身体をほぐし心までスッキリとさせてくれるもので、疲労と心労の溜まったこの身体にはとても効果的だった。


「よっと」

 身体を洗い終え、立ち上がって湯船に浸かる。


 肩まで水位が上がると、さっきまで早鐘打ってた心臓も、圧迫されるように波が穏やかになり、やっと身体の方面でも平和を迎えることができた気になる。


「ふぅ……」

 両足を伸ばして、手も大きく開いてバスタブの淵に乗せる。湯気がもくもくと立ち込める浴室はまるで大きな雲の中にいるようで、心地の良い浮遊感にどっぷりと浸る。そうしてぼーっと焦点を定めず周りを流して見ていると、ふと今しがた自分が使ったシャンプーに目が行き、視線が集中する。


「……………………」


 雫の垂れる自分の毛先を指で摘んで匂いを嗅いでみると、さっき彼女からした匂いと同じ匂いがした。


「……ぶくぶくぶく」


 自分の口元がだらしなく開いている事に気が付き、妙に後ろめたいものを感じて口を湯船につけてブクブクと泡を吐いてみる。その行動に意味などない。

 そうして家庭用ジャグジーの一部になっていると、どんどん首から上が茹だり、冷静な頭では決して考えつかないようなことに思い当たってしまう。


 この湯船だって彼女が浸かった後なんだ……なんて。


「いや変態かよっ!!」


 一人で怒鳴りつけながら、バスタブの中で派手に水滴を散らして立ち上がる。

 違う、断じて違う、そんな率直にキモいことを私は考えたりしてない。湯船に浸かって溶けた表情をする彼女の姿を思い浮かべて悶々としたりなどしていない。 


 急に身体を起こしたせいかグラッと傾く視界の中、心の中で叫び散らかす。他の誰でも無い。自分に向かって。


 浴室の中の熱波が全て自分めがけて集まっているような熱さに耐えられず、シャワーで身体を流してすぐに浴室から退散する。


「熱い、とにかく熱い」

 

 ビショビショに濡れた身体をバスタオルで拭いて、扇風機の首を回し身体の冷却と、曲悪な思考の滅却を測る。


 ブウーン、ブウーンと規則的な音を鳴らして左右する扇風機の前に立ち、背筋を丸めて目を瞑る。そしてポタポタと落ちる水滴の音だけに耳を傾け、黙って全身で風を受ける。


「はぁーー……」自分以外誰もいない洗面所でわざと大きな嘆息ひとつ。 

 

 健気にファンを回す扇風機のおかげで多少は熱の放射が進み、のぼせ気味の脳からも次第に靄が引いていく。


「心頭滅却すれば火もまた涼し……!」


 使い方が合っているかどうかは知らない言葉を、適当にノリで言ってみる。そして自分の頬っぺたを軽く一度叩いてから、洗濯機の上に置いておいた着替えを手にしてさっさと服を纏い始める。いくら熱いからっていつまでも全裸のままというわけにも行かまい。


 首を上げて鏡を見る。まだ顔が赤い。

「………………………」


 恋人が泊まりに来てて、今はミッドナイトで、その恋人は湯上り。私が健全な青少年であるというのなら、桃色なイメージに取り憑かれるのもやぶさかでは……いや、仕方はないのかもしれない。しかしそれに抗うことこそが彼女に対する真心だと何処かで強く信じている自分がいる。大切な人だから軽率な気持ちでは触りたくはないと。


 もしいずれ、いずれ、恋人の身体にこの指を這わす時が来るのだとしても、それはまだ先のことで、私達が今よりもっとたくさんのことを一緒に体験した先に待っている未来だと、そう私は思いたいのだ。


 今時子供っぽいのかもしれないが、別に構わない。 

 なんて言ったって乙女は皆ロマンチストなのだ。


「ふふ」

 小っ恥ずかしくなり、似合わない横文字に鼻で笑ってみる。


 ドライヤーで髪を乾かす頃にはのぼせた顔色も元に戻っていて、これなら二階に上がっても大丈夫だろうと、冷静さを取り戻したように、しっかり背筋を伸ばして洗面所から出てゆく。


 廊下に出ると、もう母親も寝てしまっているのか、奥の居間に光は無く、物音も聞こえなかった。


 軋む廊下を歩いて階段を登って部屋に戻る。前に、張り付く喉が冷たい水を要求して来たので、扉を開けて居間に入る。すると電気が消えた暗がりの部屋の中で、台所の横がほんのりと発光しているのが薄ぼんやりと見てとれた。

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