慕情16
「お風呂いただきましたー……。ってあれ、寝てる?」
短すぎる眠りで夢を見ることはあまりない。ただ真っ暗な世界に、実体の無い身体。その中で遠くから響く音。
「おーい……、そんなとこで寝てると風邪ひくぞぉ……」
そっと近くの床を踏む音、対照的に小さくなった女の人の声。それらを知覚しているのに、脳は凪いで、波を打つことはない。ただ耳に入ってくる。それだけだった。
「…………ほんとに寝てる?」
「ぐう」ほんとに寝てます。
「………………おーい」
一層激しく木の軋んだ音を聞いて、声の主がすぐ隣に座っているんだなと知覚する。この辺りになると誰が側にいて今がどういう状況だったか、断片的にだが理解が始まる。
「桜ちゃん……?」
「……………………」
切なげに呼ばれたそれが自分の名前であると自覚した途端、意識が浮上する。しかし、中途半端に眠ってしまったせいか身体の芯が生温く、起き上がる気が全くしない。ので、目も開かない。決して狸寝入りなどではありません。
「………………」
「……!」
自分の頭上で早まる誰かさんの呼吸を聞いていると、急にほっぽり出していた右手にそっと人肌が触れて一瞬心臓が飛び上がるが、それは顔に出さないように努める。
「……んっ」
漏れて私の顔に落ちる吐息と共に首をかがめたのか、髪がパサっと下に落ちる音が聞こえた。それを合図に私の手を取る誰かさん。そしてしばらくすると取った手の指の隙間に、自分の指を絡めて、ぎゅっと握り始める。
「………………」
握ったと思ったら、今度はゆっくり力を弱めて、手のひらに文字を書くように自分の指を這わせ始めた。溝をなぞるその指先がくすぐったくて、声が漏れそうになるが必死にこらえる。こんなことしている途中で起きられたら彼女も戸惑うだろう。それに、今起きるのはなんだかとても勿体無い事のように思えた。
「…………ふむ」
何に納得が行ったのか分からないが感慨深そうに呟く彼女。そしてやっと私の手を解放して、いい加減起きるかと思った矢先、急にお風呂上がりの洗われるような匂いが近づいた。と思ったら、
「ていっ」
ムニっと柔らかい何かがはっきりと唇に当たって、啄ばむように力が加わった。
「……ぬおおおぉぉあ!?」
「おはよう桜ちゃん」
状況理解のため上半身を全速力で前に出してがばっと起き上がる。すると私が起き上がるのを予想していたかのように、身体の重心を後ろに持っていき、衝突を避けながら爽やかに挨拶をする彼女。確か昼にも同じことがあった。学習能力抜群だ。
「おはよ……、じゃなくて!いま何を!?」声を裏返して、眠る私の隣で足を崩して座っていた彼女に、なりふり構わず問いかける。
「えっ? 手相診断と、些細ないたずらだけど?」
「あっそうなの……?いたずら?」
「そう。桜ちゃんの唇を指で摘んで起こしてあげたの」
そう言って親指と人差し指で自分の唇をムニっと摘んで実演する彼女。
「な、なるほどね」
「一体何と勘違いしたのやら」
ボソボソ呟く私に、わざと抑揚をつけた声で彼女は言う。この場合勘違いする身体の部位なんて一つしかないのにあえて意地悪で言っているのだ。しかし悲しいかな、あからさまに取り乱しながら起き上がったせいで反論する余地もない。
「狸寝入りは良くないなあ、桜ちゃん?」
「ぐうぐう」
「いや流石に無理がある」
その場で瞼を下ろして寝たふりをしてみるが、流石に無理があるらしい。まあ流石に無理があるか。
「どこで気が付いた……?」
「手を触った辺りから。だって顔、みるみる赤くなってたから」
「……ごめんなさい」
口に手を当ててクスクス笑う彼女に素直に謝りを入れる。やはり慣れないことはするものではない。私じゃどう頑張ったって彼女には勝てないのだ。
「ふふっ、まぁ私も狸寝入りなの気が付いてたから、おあいこかな。それよりお風呂、お待たせしました」
「あー、うん」
彼女の言葉を聞いて、時間を確認してみると、彼女が部屋を出てから四十分ほど経っていた。
「じゃあ行ってくるかあー」
それほど長く眠っていたわけで無い事にホッとして、まだ重さの残る身体を上に吊り上げて、左右に捻って関節を伸ばす。
「いってらっしゃーい」
そして身体をクルッと回転させて「ん!」と返事をした所で、視線は急停止。
「……………………」ゴクリとゆっくり唾を飲む。
そういえば湯上りじゃん、と当たり前のことに今更気が付く。
乾かしたての、まだ先の湿った長い髪、鼻腔をかすめる馴染みのあるシャンプーの匂い、ほんのり桃色に染まるきめの細かい肌、そして無防備にも少し肌色が透けている薄手のTシャツと、太腿を大胆に覗かせたショートパンツ。まさにジャパニーズ湯上り美人。
「……うぁ」
意識すればするほど彼女の姿に私の視線は釘付けになる。
「お風呂、行かないの?」
「行くっ!行きます!」
ずっと風の吹くまま目の向くまま視線を浴びせ続けていたら、いずれ怪訝な顔でセクハラ?とバッシングを受けそうなので、首を振って目を逸らし、ビシッと立ち上がってさっさと着替えの準備をする。自分の視線に嫌な熱が入っているのは己でよーく自覚していた。
意識して彼女の方に目を向けないようにして、「行ってきます!」とだけ言い残し早足で部屋を後にした。
扉を閉めて廊下を出ると「ごゆっくりー」と鈴を転がしたような声が背後からは聞こえてきた。
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