慕情15
「……………………」
いなくなった彼女の変わりに完全な静寂が、今度は私の部屋へとやって来た。
「……ばたんきゅー」
自前の効果音をつけながらフローリングに身体を投げ出し、その場で横になる。軋む冷たい床が身体の熱を溶かしていくようで心地が良い。
スパルタ式お勉強会に普段使用頻度の少ない脳をフル回転させたせいか、頭の奥が熱くてぼうっとする。そして背中もどことなく重く、こうして寝っ転がっていると重力を受けて固いフローリングに身体がどんどん沈んでいくようだった。
「……眠い」
瞼にも重りの存在を感じてこれが眠気であると自覚する。
再び脳を覚醒させるためにも手を伸ばし、テーブルに広げたままのノートを指先で掴んで自分の顔の前へと引き寄せる。課題の見直しでもして時間を潰そうかと思ったのだが「おやっ」自分の使っているものとは色が違って手が止まる。
それは彼女のノートだった。
「ふふふっ」
あの鬼気迫った指導を思い出し、本人には申し訳ないが今になって口から笑いがこぼれ落ちる。しかしそれは嘲笑ではなく、私のために躍起になってくれたことに対する照れ笑い的なちょっと小っ恥ずかしいやつ。
「うーむ」
彼女のノートとしばしのにらめっこ。
本当はどんな効率的なやり方で板書をとっているのか少し気になったが、本人に申し出もなく勝手に開くわけにはいかないので、指でノートの表紙をそっと撫でるだけに留めておく。
そして元あったミニテーブルの上に戻す。前に、何気なくノートを後ろにひっくり返して、再び手が止まった。
「ん?え?」
ノートの裏表紙に書いてあった文字を、思わず二度見する。
「浅倉……」
苗字は、合っている。
「……ざくろ?」
だが名前が、違った。
そこに記されていたのは、先程までこのノートを使っていた彼女の名前とはまるっきり違っていた。
「…………え?」
その不一致に、急に狐につままれたような奇妙な違和感が心の底の方から這い上がってくる。しかし同時に、何処かで耳にしたことがあるような気がしなくもないその名前に、懐古的な感情も芽生えている。
「…………ざくろ」
眉根を寄せて顔をしかめる。瞬く間に迷宮の中に落とされた私は出口求めてその中を彷徨う。そうしてしばらく頭の中の人物名簿と見比べて、想起していたところで、ハッと引っ掛かりが解けるように一人の人物が浮かび上がってきた。
「あっ、妹さんかっ!」
やっとこさ思い出して、彼女とは明らかに違う字体で書かれた名前に、もう一度目を向けてみる。
『浅倉ざくろ』
苗字が彼女と一緒な時点で親類縁者だとは思っていたが、会ったことがほとんど無かったので思い出すのに少々苦労した。
それは紛れもない彼女の妹さんの名前であった。
彼女の家に行った際に一度だけ玄関の前で出くわしたことがある。その時は、確か彼女が紹介してくれて軽く挨拶をされたはずだ。内気そうな女の子で、目鼻立ちが姉とよく似ていたのを覚えている。
名前が記してあるということは、このノートの持ち主は浅倉ざくろ、彼女の妹さんなのだろう。
ではなぜその妹さんのノートがここにあるのだろうか?
しかもさっき彼女は新しいページを使って、ばっちり上から課題を写していた。
「やらかしてるなー」
口を開いて笑いを含みながら小声で呟く。
妹さんの名前と気が付いた時点で察しはしていた。
おそらく間違えて鞄に入れて、そのまま気が付かずに使ってしまったのだろう。
どういう状況でそうなったのかは想像がつかない上に、普通ノートを開いた時に気が付きそうなものではあるが、今日の彼女はかなりおっとりしている。ついに気が付かないまま、課題を解き切ってしまったのだ。
微笑ましいドジっ子具合。後でからかいながら指摘してあげよう。
ふっと鼻で一笑してから、手にしていたノートを再びミニテーブルの上に戻す。
大したことない謎解きのせいで余計に頭を使ったからか、さらに増した眠気にいよいよ本気で抵抗が出来なくなっていた。
一瞬だけ、一瞬だけと自分に言い訳をして目を閉じる。
身体を包む心地の良い疲労感。遠ざかっていく瞼を透過する天井の照明の色合い。そして、
「ぐう」気が付けば、いや、気付かぬうちに私は微睡みの中へと落ちていた。
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