慕情14

「はいはい!そう、そこで因数分解を使って、それでその数式を今度はこっちに、ほら手が遅いぞ桜ちゃん!」

「勉強教える時、いつもキャラ変わるよね……?」

「コラッ!無駄口叩かないの!」

「あいてっ」シャーペンでひたいをぽこんと叩かれて、軽快な音が脳内で反響する。


 古代ギリシア時代に活躍をした最強の重装歩兵軍式の教育制度を採用した、迫りくる怒気をぶつけるスタイルの授業で私を手ほどきする彼女。普段温厚な彼女が見せる殺伐とした一面に、心が縮み、鼻の奥がツンっと刺激されるも、なんとかこらえて我慢する。もう高校生だから厳しくされたくらいじゃ泣かないもん。


「うん、そうそう。それで合ってるよー!はいあと一息!」

「うぅーー……」


 滲む視界の中、唸りながらも彼女に言われた通りに問題を解き進めて行く。しかし辛い。心がしんどい。あれか、こういうのを最近じゃぴえんって言うのか。


「こらっ集中しなさい桜ちゃん!」

「ぴえん……」

「………………」

 隣からシャーペンを強く握るギュウ……という恐ろしい音が聞こえ、黙って問題を解く手の速度をさらに一段階上げる。


 いつからかかなり本気で厳しくなった彼女の学術指南。最初は雛鳥を無償で甘やかす親鳥のように優しかったのだが、私が理数系科目で恐ろしい点数を取っていると露見した辺りからこの地獄のお受験ママスタイルは始まった。私のことを思って彼女なりに思索した結果こういうスタイルに行き着いたのだろうが、最近はちょっとコンプライアンスに違反しそうな鉄拳制裁を受けることもある。しかし教えてもらっている身としては甘受するしかない。それに成績優秀者というだけあって教え方は確かに完璧なので、彼女のおかげで赤点を毎回免れていると言っても過言にはならないレベルで私の成績には貢献してもらっている。まじ感謝。


「で、出来た……!」


 出された課題をやっとの思いで解き終えて、ノートの上にシャーペンを投げ出す。後半はプレッシャーのせいで力が加わり、かなりの筆圧で書いていたので、指の関節がプルプルと震えていた。


「はい、お疲れ様でした。よく頑張ったね桜ちゃん」


 さっきまでの迫り来る気迫はどこ吹く風、急にケロッと通常の人好しする笑顔に戻る彼女。……女性というのは時には怖いものなのだ。


「へへ……、えへへ……」


 その豹変っぷりに若干の恐怖を覚えつつも、少し背筋を伸ばして、えらいえらいーと大型犬にやる手つきでわしゃわしゃ私の髪を撫でる彼女の行為が、摩耗しきった心を癒し、思わず鼻の下が伸びる。


「あぁー……、疲れたぁ。教えてくれてありがとね」

 両腕を思いっきり上げて、腹筋も吊り上げて上半身を伸ばし、根気よく最後まで付き合ってくれた彼女に謝辞を述べる。


 教え方が強豪野球部の顧問みたいでも、見捨てないでいてくれることに本心からありがたいと思っている。


「いえいえ。それはいいんだけど、あれだね。本当は基礎からもう一度しっかり叩き込んだほうが、」

「あっ、もうこんな時間かぁー。そうだっ、そろそろお風呂入っちゃいなよ、お風呂」


 一瞬変わったその目の色を私は見逃さなかった。


 彼女の言葉を無理やり遮って入浴の提案をする。今からもう一度手ほどきを受けるとなったら、私の心はもうぴえん通り越して火炎だ。全焼だ。うまくねー。


「あっ確かに。もう結構いい時間だ」


 幸い私の話題転換に疑いを持たなかった彼女が、スマホで時間を確認して軽く驚いたように口を開く。熱が入っていたせいで気が付かなかったのだろう。

 決して地獄の勉強会から逃げたかっただけではなく、もうかなり夜も更け初めているので、そろそろ布団に入る準備をした方がいいのは事実。

 明日も明日とて、彼女も私も学校がある。


「先入っちゃって大丈夫だから」

「そう?私は桜ちゃんと一緒に入っても大丈夫なんだけど」

「ぶへえ」吹き出す。


 いくら何でも飴と鞭が過ぎるだろと思いながら、隣を振り返ってみると、からかうように目を横に細めて、犬歯を見せてニヤッとしている彼女。


「ごめん、嘘だよ」

「で、ですよねー……」


 テヘヘと舌先を覗かせるその姿に、後頭部をぽりぽり掻きながら力なく笑ってみせる。本気じゃなくて良かったと思う反面、心の根っこの根っこの方で残念と落胆する気持ちも、……いや無い。無いです本当に。無いってば。


「じゃあ、先頂いちゃうね」

「うん。必要なものは洗面所か浴室にあるから適当に使ってね」前泊まった時もうちのお風呂を利用していたのでこの辺の説明は省く。


 ん、と頷いて、スーツケース町二丁目から必要な着替えや歯ブラシやらを取り出し、まとめて持ってから部屋を後にする彼女。


「……ごゆっくり」


 パタンと閉まる自室の扉と、遠ざかる彼女の足音を聞きながら、もう聞こえないだろうと理解しながらも一人、呟く。

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