稀少10

「えへへ」

「へへへ」


 後ろ手で鞄を持つ彼女の少し低い視線と私の視線が交わって、どちらともなく笑い出す。なんとなく今までのやりとりがこそばゆく、張り詰めていたさっきまでの空気感が可笑しかった。


 そして長かった一歩を一緒に踏み出し、やっと私達は春晴れの下を歩き出す。


 今までずっと、自分の家の真ん前で恋人といちゃいちゃしていたのだと考えるとなかなか凄い。もう自分がヘタレとは無縁にも思えてくる。ただ盲目になっているだけというご意見は受け付けない。


「………………」


 横目で彼女を捉えてみれば、その朗らかな顔つきも、胸で風を切って歩く様子もいつも通りで、切り替えの早さにほんのりと寂寞を感じた。私の心がまだ動揺を残しているからだろう。


 その動揺はキャパを超えた濃厚接触の所為というのもあるが、妹に現場を目撃されたから、なんてのも理由としては挙げられる。

 ……そう、思っきり見られちゃったのだ。チューしようとしているとこ。それもまぁ、一応相手はどう見ても同性で、同級生な感じで、一体全体どう思うんですかねそこんとこ。なんて煩慮に心が騒つくのも無理はない。


 世間体とか規範とか、そういう私を覆っている社会なんてのは、結局自分が手を振り上げても、ぶつかりそうもない領域にある気がして、だからこそ私は思い切り自らの手を伸ばし、彼女に告白した。


 しかしそれらが全く気にならないなんて言い切れるほど、私は色々無頓着じゃない。


 家族の反応というのは健やかな日常生活を育むにあたって、かなり肝心な要素だ。

 だから年頃の女の子として、同性の女の子と、こう、……ちゅっちゅっしているところを見られたなんて、それなりに心配はしているのだ。


「桜ちゃんがずっと難しい顔をしている……」

「へっ? あ、ごめん」

 指摘されてハッとする。眉間のあたりが確かに重い。

「どうかした?」

「いーや、ちょっと太陽が眩しかっただけさ」

「そっか。確かに今日は日差し結構あるね」言いながら手でひさしを作って上を向く彼女。


 小さな嘘に罪悪感は伴わなかった。


 実際、確かに憂いてはいるが、顔をしかめるほど深刻な事態とまで捉える必要は多分ない。


 なんせ私の妹はアホの子一等賞だから。リアルでパジャマのまま寝ボケて学校へ行こうとする、今時珍しいタイプのアホの子だ。純度が高い。


 それに何より、人の気持ちをちゃんと慮ることの出来る子でもある。どれだけ阿呆でも良識がしっかりとした優しい自慢の妹なのだ。だからきっと大丈夫。心の底ではそう思っている。


「さーくらちゃんっ」

「んー?今度はなっ、」


 もう眉間の皺はないはずなのに名前を呼ばれて隣を向くも、彼女がいなくてその場で止まる。咄嗟に後ろを振り返ろうと身体ごと回したところで、人の温もりを持った柔らかい両手に頬を挟まれ、首だけふわりと流されるように横に向けさせられる。


 そして急に視界が真っ黒になって、


『ちゅっ』  


 なんて耳がザラつくほど甘い音が世界のどこかで鳴って、私の脳に入った。


「ぬっヒャっっりあああぁぁ」

「うお、完全に異星人」


 視界が元に戻り彼女の顔が目に映る。


「!?!?!?」


 しばらくその場で彼女の顔を見つめ、呆然としていたが、鼻をかすめる甘い匂いと、頬に残る濡れた感触でピンときた。


「ちゅ、チュウ……?」

 動詞が完全に不足しているとちゅーである。


「うむっ。ほっぺにだけどね?」

 そう言って、チューチューと鳴いてネズミの真似をする彼女。いや可愛いけれど。

「なななななななななぜ」


 喉が震えて肺が吐く過呼吸気味な息の全てに『な』が付属したせいで、九割が『な』で構成されてしまった謎の言語を吐き捨てる。


「えー……。なんか、したくなったから?」


 それでも私の言葉を理解して、地面を見つめ口ごもる彼女。その顔はじわじわと赤みを帯びている。


「そ、そおっかー…」


 彼女の見せた恥じらいに逆に私が落ち着きを取り戻し、なんとか相槌を打つ。

 心臓は既に潰れたのか身体からはなんの音もしない。だからこそ余計に自分の頬に全神経が集中する。


 めっちゃくちゃ柔らかかったあぁ。


「いいんだよね?」

「えっ?」

「……こういうことしても」

「……う、うんうんっ」

「私は桜ちゃんの恋人、だから、いいんだよね……?」

「うんうんうんうんっ!」


 下を向いたまま肩をゆらゆらさせている彼女に向かって、首をブンブン振って全肯定。良い。良いに決まってる。むしろ恋人らしくて大変結構。


 私の望んだ蜜のように甘い日々の全てがここにある。


 苦節約一年。やっと実った私の恋。そうして始まる青春に、この場で腕を広げて叫びたいほどの喜びが身体を滾る。


「桜ちゃん」

「うんっ!?」


 沸き立つアドレナリンに任せて勝手に押し出た返事は、妹のテンションと良く似ていた。


「さっき言ってた、ほっぺたじゃないやつ。次は、桜ちゃんから……ね?」


 出来上がった真っ赤な顔をこちらに向けて、首をわずかに傾けた彼女。


「オッス!!!!!!」



 こうして、恋人との初めての朝は、両腕でガッツポーズを取る、壊れた私の大声で脚色されるのであった。

 

 


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