稀少3

「あっ……」


 彼女の薄い唇がわずかに揺れた。動揺は聞こえない程小さい悲鳴となり、大気と混じって、跡形もなく消えてしまう。それでも今この場から走って逃げださない彼女に、私は救いを見出す。それは勝機と言ってもいいかもしれない。


 お互いの顔が視界いっぱいに入る距離まで来て、そこで自分の緩慢な動きを止める。

 意図的に近づかなければありえない距離感。互いのパーソナルスペースなんてとっくに崩壊している。


「私、どっかおかしいかな?」

 くすぐるように小さな声で自分の恋人に問うてみる。好きな人に触りたいのは変ですか?なんて、ネジが飛んでる今を逃すと二度と聞けなそうだったから。


「い、いあ、おかしく、は、ないのかな……?」

「よかった」


 ふるふるしている瞳を上に向け、上目遣いで私を捉えている恋人。声も抑揚が不安定で、まるで喉が張り付いているようだ。緊張の二文字があからさまに見て取れる。

 自分で言ったことに疑問符を付ける人間は大抵考えるのが面倒な怠け者か、自分の言っていることが咀嚼できないくらい頭が白くなっている人間だ。ちな私の恋人は勤勉な子なので前者は切り捨てで。


「…………………………………………」

「…………………………………………」


 フッと息で風を起こせば、眼前にいる互いの前髪が舞い上がる近さ。

 両者見つめ合って、離れるタイミングは息をしていない。

 あれだけ吹いていた春風の音色さえも、今や私の耳に吹き込むことも無い。

 ただ聞こえるのは全身の血が怒涛の如く頭に大挙する、どどどどーという、まるで爆弾魔が連続で仕事をしているような音だけ。


「桜ちゃん……」


 爆弾魔が私の頭の中を次々吹っ飛ばしている最中、不意に名前を呼んだ恋人の声に、怠けていた脊髄が椅子から転げ落ちるように反応する。


 その声の艶を秘めた色合いに、比喩ではなく本当に身体が跳ねた。


 だって彼女のそんな声を聞くのは初めてだったから。


「桜、ちゃん……?」


 普段は桃色の花びらのように可愛らしい声をした恋人が、今日は全く別の意味の桃色を孕ませている。その相好も、じっとこちらを見つめる目つきも、どこかに私の知らない彼女が潜んでいるようで、蠱惑の底に落ちていくような感覚ってこういうものなのかなぁ、なんて文学的な表現を爆発が続いている頭の片隅で考える。


 ぶっちゃけもはや何がなんだか私にも分からない。

 動揺に駆られる彼女があまりにも可愛く、私のちっぽけな嗜虐心がここぞとばかりに挙手をしたので、少しだけからかおうと、こっぱずかしい事を敢行したのに、今はなぜだか新しい扉が開こうとしている。でも彼女との距離を近づけたいと願ってやった事なので、そういう意味では成功とも言えるのかな?

 

 この近さだと、物理的な距離だけではなく、心までお互い通じ合ったように思えてしまう。私も彼女も心を許した故のこの距離なので、私がそう考えるのも自然だろう。


 だからだろうか、心臓も頭も現在爆発進行中のはずなのに、その胸中は驚くほどに穏やかなもので、全身がどこか深い深い海の底に沈んでいくような静謐に心は安らいでいる。


 まるっと自分が何か強固なものに守られているように今、私は安心している。この心地良さはきっと相手が彼女だから味わえるもので、私が彼女を好きだから感じ取れるものなのだろう。


 私だけではなく彼女もそう感じてくれているといいなと切に願う。


「ねぇ?桜ちゃん」


 願い届いてか、はたまたその逆か、下からわざと私に吐息をかけるように囁いた彼女に、またもや身体のどっかがボムッ!っとする。大分慣れて来た。


「う、うん」

 彼女の熱の籠る視線に気圧されるように返事をする。


 爆破されたのが喉じゃなくて良かった。著しい唾液の欠如により、耳に入った自分の声はかっすかすだったが、一応発声は出来ていた。


「…………………………」


 しかし私の返事に彼女は何も言わない。ただ見ている。目を少しだけ細めてじっとこちら見つめている。

 顔は俄然桃色に色づいているのに、瞳の中はどこか不敵な光が射していて、その眼はこちらを、私を、試しているようにも見てとれた。

 私を試す。つまり私の次の行動を待っている。それは彼女の期待と言い換えられたりもする。


 そうだ。私、今多分すごい何かを期待されている。


 だって私の恋人の視線は、さっきからまるで光線のようにギラギラとしているのだ。

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