稀少4

「あ、あの、」 相変わらずの、かすれ具合で言いかけてハッとして口を閉じる。

 

 いや、こういうのって多分、相手に答えを聞くべきではない。


 経験が無いので経験則では語れないが、私の中の恋愛常識辞典にはそう書いてある。

 恋愛常識その壱『相手が何か期待している時は、自分で答えを考えてから応えよう。指示待ち人間はガッカリされてしまうかもだぞ』


 うん、多分こんな感じて記してある。私文社書店発刊なので間違いない。


 そう。あくまで自分の頭で考え、思索するのが重要なのだ。それを彼女も望んでいるはずだ。


 ということで、しばらくぶりに脳を使ってみようか。

「……………………」


 彼女の大きな瞳の中を見つめ、考える。その漆黒の奥を見通せるように。


 考える……。考えろ……。考えて……。この状況。往来を気にせず距離を縮めて二人で視線をぶつけ合って、手を伸ばせばすぐに彼女に触れれるこの状況。


「………………………………」


 彼女が一瞬私の唇を見て、その瞳を大きく揺らす。直後、ふと、自分の後ろ髪を揺らし背中を駆け抜けた生暖かい風に意識が集中する。


 そういえば、広い背中がガランと空いている気がして、なんだかひどく物寂しい。


 そう感じるのは、おそらく、こんな近くに想いを寄せる恋人がいるのに互いが互いに触れていないからなのだろう。視線は絡み合っているのに肌の温もりを感じられない、それがより一層の空虚をもたらしているのだ。そしてそこまで実感してようやく私には答えが見え始めた。


 なまくらのような私の神経でも感じる空虚なら、きっと彼女も同じように思っているはず。違っていたら本当に目も当てられないが、ビンゴだったらこれ以上待たせるわけにもいかない。


 彼女が私に期待するもの。


 それはずばり、ゲームセット。決勝で敗退した甲子園球児達の如き熱い抱擁。加えてそれを実行する勇気。


 この二点セットに違いない。と気付いたところで、すかさず、ほわわわ~ん。


『………………とりゃっ』

『わっ……!』

 後のことなど一切想像せずに私文社書店発刊恋愛常識辞典と乙女の勘だけを信じて、彼女の腰に手を掛け、自分の身体へ颯爽と抱き寄せる。そして腕に力を加えて細い体躯ごと私の身体ですっぽりと覆ってしまう。

 彼女の身体も匂いも柔らかい髪も吐息も全て私の手の中に収まり、全身で感じる肌の熱が劇薬のように私を痺れさせる。しかし私の肩におでこをつける彼女を見て、まどろむような心地よさに溺れそうにもなった。それは実になんとも不思議な感覚だった。


 フィン。

 この間わずか0・2秒


「……うっし」 

 すぐそばの彼女に聞こえないように口の中で呟く。

 

 …………イメージは完璧だ。あとは実行に移すだけ。だけどそれがいっつも難しい。これは万物に共通だったりする。

 とか独自の哲学を展開している場合ではない。状況を動かさなければいけない。それも私から。


 自分の拳を軽く握って親指の付け根に人差し指を差し込む。きつけなんて気概のある痛みではないが、己の軟弱な精神に入魂するならこの程度で十分だ。

「…………………」

 意を決して、ほんのわずかにつま先を彼女の方へ寄せて、さらに距離を縮める。

「…………っ!」 

 私の挙動に、彼女の意を察した私の意を彼女が察したのか、切なげに細めていた目がほんの一瞬だけ綺麗にまん丸に開かれた。桃色に染まった可愛いほっぺたも引きつらせている。


 私の顔はきっと彼女よりも激しい朱色に染まっているのであろう。彼女の瞳に映る色のない私からは読み取れないが、明確に顔全体が火照って、まだ四月なのに額からは汗がぽつぽつと湧き出してきている。くすぶる熱に頭がおかしくなりそうだった。


 それでもなんとか、今度は上半身ごと前に出して彼女に接近する。


 本当は勢いをつけて強くぎゅううっとするはずだったのだが、身体のいたるところが錆びついた人形のようにギシギシ軋んでいるせいで、えらくぎこちない動きになってしまっていた。だがそれでもいい。


 触れたいと願う気持ちに嘘偽りはない。今はそれを形にできればそれでいいのだ。さあ行け私。告白は出来たのだからハグくらいよゆーだろ。難易度イージー。


 女を見せろ本堂町桜。


 自らの両手を広げて彼女を受け入れる体勢を整える。これでもう後戻りは出来ない。

 

 自分の身体に体重を乗せ、緩急をつけて彼女への距離を一気に詰める。


 そして我が恋人の背中に手を回す、その直前、すぐ間近の彼女の表情が一瞬だけブレる視界に入り込んだ。

「……!?」

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