稀少
稀少1
「えっ」
口の隙間を縫うようにして口外へと出た自分の声が、静かに春風に掻き消されどこかへ飛んでいく。
柔和な風に後ろ髪を乗せて波のように揺らすその子の姿に、私の両の眼球は道に迷うことなく、まっすぐとその子だけに向かう。
「おはよう桜ちゃん」
先にちゃんと言葉を発したのは向こうからだった。
私より十数センチほど身長の低い彼女が、顎をわずかに上げることによって三日ぶりに私達の視線は合わさる。
「おはははよよ、きょおおうはなあんかふいんき、ちっ、ちがっうね」
先にちゃんとしてない言葉を発したのは私の方からだった。
一文まるまる発声を終えてから、声が震え上ずり、舌が固まっていることに気が付いた。途中停止の指令を出そうにも脳が真っ白なので制御不能。どうやら私のブレインはかつての輝きをとうに失い、ただ頭蓋の中で浮遊するだけの重りに成り下がったらしい。
「……うん?」
薄いピンク色の唇を片方釣り上げ、小首をかしげる彼女の目はまん丸に開かれていて、やはり自分の言葉が不明瞭を極めていたのだと悟る。その声色がやたら優しいのがまたなんともいたたまれない。
「……………………」
一度、視線をはるか上空へと向ける。その際、表情はあくまで余裕ありげに、口元で軽く笑みを作ってみる。表情だけは。
そして目を細め、穏やかな日差しを顔でじゅーぶんに受け止めてから、ゆっくりと頭を下げて視線を元に戻す。
「やり直し、いいかな?」
キリッとした声で言ってみた。
「おはよう桜ちゃん」
向こうは適応力の塊だった。
「おはよう。今日はなんか雰囲気違うね?」
あぁ頭蓋の中で路傍のゴミとまで蔑まれた我が脳が、輝かしい復活を遂げる瞬間が今ここに。
「ふふっ、なんでだと思う?」
「つッッ」
ゆるりと口の端を上げ、いたずらっぽく微笑む眼前の女の子に、再度処理能力がガバりそうになるも、なんとか自分を保って、私は考える。
いや、実のところ考える余地などない。彼女をいま一目見た時から私はそのあまりにも大きい異変を即効で見抜いていた。おはよう。今日はなんか雰囲気違うね?が、おはははよよ、きょおおうはなあんかふいんき、ちっ、ちがっうね、になったのだってその所為であると言える。
彼女の見慣れぬ姿に不意打ちを食らった。
端的に言って、恋人の髪を下ろした姿に感動し感電して変な事を口走ってしまった。言ってしまえばそれだけである。が、なんだそんな事かと呆れるのにはちょっと待ったをかけさせてもらいたい。私が告白してカップル成立を果たした日から三日経った今日は、先述した通り、私達が恋仲になってから、初めて互いが顔を合わせる日でもある。そんな日に、そんな実質セレモニーな今日に、いつもは後ろで髪を縛ってまとめてハーフアップでゆるっとキメている恋人が、その髪を完全に解いて大人の魅力強調気味に肩を揺らしながら自らの前に現れたのだ。
彼女が髪を下ろしている姿なんて、これまで数回程度しか目撃したことがない。それも水泳の授業の着替え途中など必要不可欠な時だけ。なのに今日に限って登校前からその姿で家を出たということは、つまり、つまりだ。
それは彼女が今日を特別な日だと思っているから、いつもとは違う髪型で私の前に現れた。って事ではないだろうか?か?
なんというかこう、今日は恋人と会う特別な日だから、いつもより大人っぽい雰囲気で行っちゃおっ!的な、そういう風に思ってくれたからこそのイメチェンなのではないかと、そう考えてもいい条件が揃っていると私が考えるのも不自然ではないと判断できるだけの証左が存在しているという事もないと言えるようなタイミングの良さだと思うわけ。…………臆病が過ぎるな。
まぁしかし、もし本当にそうだとしたら、何よりもその心遣いが身に染みて嬉しかったりするわけで、今日を特別視しているのが私だけないことに私の心は密かに浮かれちゃったりするのだ。無論気恥ずかしさも増すわけだけど。
「いやここはスパッと当てようよ」
「えっ、あ、ごめん」
その場で自分に視線を浴びせたまま停止している私を、怪訝そうに下から覗く彼女の意図的に細めた目を見て、ハッと我に帰る。質疑応答の真っ最中でしたねと。
いけないな。これではあまりにも今日の私が無様に終わる予感しかしない。
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