鬼章

鬼章

 ふと自分がまだ小学三年生だった頃を思い出していた。


 まだまだ小さい身体に幼い倫理と膨大な熱量。それから子供の持ち合わせる様々な要素を詰めて、あの頃、私は周りの子と調和を保って連綿に続く毎日を当然のように生きていた。


 昔は楽しかったなぁとかキツイ日々だったとかそうじゃない。あの頃を思い出してどうとか、そういう話ではないのだ。楽しい思い出もあれば辛酸を舐めたような気分になる事もあった。そういう意味では今と対して変わらないとも言える。もっと言えば、日常が壊れるほどの悲劇を味わう機会も、価値観が一変するほど劇的な出来事に立ち会う機会もなかった。だから朝起きて学校に行って、友達と話して遊んで、それは当たり前で、小学生の頃の私も私の周りの子達も、懐疑なんて入り込む余地なく皆がそうしていた。


 しかしそんな中、学校に一人だけ異質な男の子が存在していた。


 その男の子は私と同じクラスで、席が私の隣だった時期もあった。そして当時の私はこれが非常に嫌だった。その理由を、大した事ではない、と、当時の私は思わない。


 嫌な臭いがしたのだ、彼からは。


 率直に言ってとてもくさかった。教室に入り、自分の席に着くと、汗や垢や脂を放置したような饐えた臭いが、彼の身体を発生源にして、隣の席の私にまで届いて、私はその度に辟易していた。それにその子は見た目もとても清潔とは言えず、半袖のボロボロのシャツから露出している肌はどこも浅黒く汚れていて、ぼさぼさの髪は脂でじっとりして、目を凝らしてよく見ると白いフケが虫の卵のように点々と付着していた。


 それから、彼の顔にはいつも大きな痣があった。顔だけではない。腕も足もそこらかしくに大小様々な痣が、模様のようにその黒い肌にくっついていた。場所を変えて浮かび上がるその痣は、私の知る限り彼の身体から消えたことはない。そしてそこまで詳細を覚えているのにその子の名前やどんな顔つきだったかまでは記憶していない。決して親しかったわけでもなく、むしろ、というかやはり、異質な彼は教室の中でいつも一人ぼっちだった。小学生には小学生の世界があり、汚れた彼のことを受け入れる子供はあの教室の中にはいなかった。私もそう。


 まだ子供だった私は、彼がなぜそんな見た目をしているのか、なぜずっとお風呂に入っていない臭いがするのか、その答えに辿りつけるほど世の中の醜悪な部分を知識として蓄えていなかったので、深く考えず、ただ彼と関わりを持つ事を意図的に避けて学校では過ごしていた。周りの子供もだいたい同じ反応で、彼はいつも傷付いたまま一人自分の椅子に座っていた。


 その後席替えが行われ、私は内心あの男の子と席が離れたことにガッツポーズをした。そのままクラスが変わり学校で彼を見る機会も随分減り、中学に上がった頃には彼のこともすっかり忘れて新生活に打ち込んだ。


 そして数年越しに今こうしてあの男の子を思い出しているわけだけど、今にして思えば、あれは完全に児童虐待の類の話だ。


 小学生だったあの子の見た目や痣には、彼の保護者が深く関わっている可能性が大いに存在する。年相応の常識を持っている十七歳の今の私にはそう断定出来る。


「……生きてるのかな? あの子」

 自室のベットに腰掛け、なんとなく声に出して呟いてみる。


 懐かしいあの子とはまた違った臭気に耐えられなくて、気を紛らわせたかっただけかもしれない。


 生きているのか死んでいるのか。


 当時私の通っていた学校の教員達は大人として何か動きを見せたのか否か。

 他の保護者達は授業参観で彼を見て何を思ったのか。


 そして、私の両親は何を思ったのか。


 一瞬だけ知りたいような気もしたけれど、すぐに忘れて「あぁ寝よ」どうでもよくなった。


 明日は土曜日で学校は無いから、思う存分寝坊が出来る。









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