禁止事項

尾八原ジュージ

禁止事項

 彼女の住むアパートの最寄り駅に着いたところで、俺のスマートフォンに当の彼女から連絡が入った。

『ごめん、仕事でトラブルがあって遅くなる。合い鍵で先に入ってて』

「了解」と返事をして、俺はアパートに向かった。

 二階建ての小ぎれいなアパートの203号室が彼女の家だ。俺は預かっている鍵で中に入った。彼女は一人暮らしなので、部屋はもちろん無人である。

 上京するたびに厄介になっているから、勝手知ったる他人の家だ。ダラダラしていると、またしばらくしてスマホが震えた。

『ほんとごめん。日付変わりそう』

 せっかく県境を越えてきたのに……という気持ちがなくはないけれど、仕事なら仕方がない。「お疲れ様。勝手に風呂入ったり寝たりしとくよ」と返事をしてスマホを置くと、少ししてまたメッセージが届いた。

『好きにしてていいけど、十二時過ぎたらベランダには出ないでね』

「なんで?」と返信したが、返事はなかった。

 きっと仕事に戻ったのだろう。俺は宣言した通り、勝手に過ごすことにした。コンビニで買った弁当を食べ、シャワーを浴び、漫然とテレビを点けてビールを飲む。そのうちに眠くなってきてしまった。時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだ。

 まだ彼女から連絡はない。よほど取り込んでいるのだろう。

(先に寝るかぁ)

 飲み食いしたものを片付け、歯磨きを済ませてシングルベッドに寝転がった。まだ働いているに違いない彼女に対してすまないような気もしたが、帰ってきたらきっと起こしてくれるだろう。

 寝具は女性特有のいい匂いがした。いい気になって枕に顔を埋めていると、ふと彼女と、彼女の言葉を思い出した。

(十二時過ぎたらベランダには出ないでね)

 そういえば何度もこの部屋に泊ったけれど、あえて真夜中にベランダに出たことは一度もない。掃き出し窓のカーテンは、この部屋に入ったときからすでに閉まっていた。

(そもそもベランダ、どんなんだったっけなぁ)

 特におかしなものはなかったはずだ。せいぜい物干し竿とサンダルが置かれているくらいではなかっただろうか。

 一度気になり始めると、とたんに眠気がさめてしまう。

(出るなって言ってたよな……じゃあ、見るだけならいいかな)

 立ち上がって掃き出し窓に近づく。開ける前に一度耳を澄まして外の様子をうかがった。何も聞こえない。

 思い切ってカーテンを開けた。洗濯ばさみがいくつかくっついた物干し竿が目に飛び込んでくる。ほかに目立ったものはなさそうだが、掃き出し窓の下半分は曇りガラスになっているので、下にあるものはよく見えない。

(確か黄色いサンダルと……あと何かあったっけ)

 ガラス戸に手をかける。出るわけじゃない。見るだけだ。

 鍵を開ける。カラカラと小さな音を立ててサッシが開く。

 コンクリートの上に、黄色いサンダルが行儀よく揃えられている。やはり何もない。トラブルがあって忙しいはずなのに、どうして彼女はわざわざ「十二時過ぎたら……」なんて連絡してきたのだろう。わからない。

(ベランダに出たらどうなるんだろう)

 ふと好奇心が兆した。

 サンダルに片足を入れる。続いてもう片足。

 何も起こらない。

 夜風が頬を撫でていく。視線の先に街の灯りが瞬いている。

(気持ちのいい夜だなぁ)

 酔いも手伝って、ふらふらとベランダに出ると、手すりに肘をついて外を眺めた。ひさしぶりに煙草でも吸いたい気分になってくる。

 そのとき、何か音がした。左側、パーテーションの向こうからだ。

 もう一度同じ音が聞こえた。人間の声だ。咳払いのような。

 と、突然パーテーションがバンバンと叩かれた。ぎょっとすると共に、俺は大方の事情を理解した。

(きっと隣人が変わった人なんだろう)

 神経質なのだろうか。掃き出し窓の開け閉めする音が、思った以上に隣に響くのかもしれない。ともかく、自分のせいでご近所トラブルが発生しては彼女に申し訳ない。

 俺は静かに後退り、サンダルを脱いで室内に戻った。窓とカーテンを閉め、ほっと溜息をつく。

(そういうことなら、あいつも事情を言っといてくれればいいのに)

 理由がわからないから、徒に好奇心が刺激されて、無駄なことをしてしまった。

 そういえば、彼女の方はどうなっただろうか。ベッドに寝転がってスマートフォンを見ると、案の定メッセージが届いていた。

 彼女からだ。たった一言、

『ベランダに出たでしょ』

 断定的な文章に、思わず背筋が寒くなった。画面を見つめていると、もう一件メッセージが届いた。

『ベッドの下、絶対に見ないでね』


 寝転がっている俺のすぐ真下で、咳払いのような声が聞こえた。

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