第9話 スエ視点

チャンスだ。

ここから逃げるチャンス。今から国境へ向かえば、夜の闇に紛れて国境を越えられる。


夕暮れの田舎道。歩いているのは、私ともう一人。疑うことを知らない、底抜けに純粋な子どもがいるだけだ。

人通りはないが、屋敷までは一本道。それにこの子はもう12歳だ。迷子になることは無いだろう。


「ヨル様、申し訳ありません。さっきの店に忘れ物をしてしまいました」


目の前の主人に対し、嘘を吐いた。

「ここで待っていてください」と続けると、素直に頷く。私が嘘を吐いてるだなんて、ちっとも疑わずに。

胸が苦しい。

しかし、今しかない。下層階級として、ずっとここに留まってるわけにはいかないのだ。

田舎道を駆ける。小さな商店街、先ほど買い物した菓子店を通り過ぎても、まだ足を止めない。


ここへ来た数年前を思い出す。

前の『主人』は下層階級を家畜か何かのように思っている人間だった。その状況から救い出してくれたのが領主だった。

領主の一人息子のヨル様のお世話係になり、退屈ながらも穏やかな日々が始まった。


日が暮れた。国境まではあと少し。息を切らし、ただただ走り続ける。


ヨル様のお世話係として、穏やかな人生を過ごすのも悪くない。そう思ったこともある。逃げる機会をうかがっていたことも確かだが、逃げなくてもいいとも思っていた。


しかし、今日。新聞の記事に目が奪われた。


隣の国の政情が不安定であること。

数年前に政争に敗れて放逐された王族や貴族たちが、現政権に対して予告状を出したこと。

新聞には丁寧にも、予告状の全文が掲載されていた。予告状に対し、新聞記事は『荒唐無稽で意味をなさない文』という識者の見解を載せていた。

確かに、何も知らない者が読めばでたらめで乱雑な文に見えるだろうが…。

これは暗号だ。同志だけが分かる暗号。再結集を呼び掛ける暗号。


私は隣国の貴族の家に生まれ、政争に敗れ、下層階級に堕とされこの国に連れてこられた。辛酸を舐めることもあったが、使用人として穏やかな生活を手に入れた。このままヨル様の成長を見守り、救い出してくれた領主に仕えようと思った。思っていたが。


記事を読み、居ても立っても居られなくなった。同志が集まり、腐敗した政権を倒そうとしている。自分の国を正しい方向へ導くために、私にできることがある。そして、数年前の屈辱を晴らす。


だから私は、逃げることを決意した。逃げる?いや、違う。逃げるのではない。帰るだけだ。



そして。



長い時間が過ぎた。うまく国境を越え、同志と再会し。さらなる権力闘争により国は乱れた。

それも月日をかけて乗り越え、ようやく国に安定と平和がもたらされた。私が走り去ってから、十年は経っていた。

走り去った日から今までずっと、置き去りにしたあの子のことを忘れたことはなかった。私のことを両親にどう話しただろうか。私がいなくなって、悲しんだだろうか。

少し幼いところがあったが、寄宿学校に馴染めただろうか。どんな青年になっただろうか。


少し時間ができた頃、休暇を取った。

気になっていた。謝りたかった。ヨル様にも、お館様にも奥様にも。


身分を回復した私は、立派な馬車に乗り堂々と国境を越えた。十年前、走り去った田舎道。かつて逃げた道を通り、辿り着いた屋敷。


しかし。


領主の屋敷であるはずの建物は、人の気配がなかった。庭は草が生い茂り、屋敷の窓ガラスが割れていた。

どうしてこのような状態なのか、理解できずに呆然と屋敷を見ていると、道の向こうからひとりの女性が歩いてくるのが見えた。


「すみません。ここは領主様のお屋敷だったと思うのですが」


そう話しかけると、女性はとても気の毒そうな表情を浮かべた。


「領主様のお知り合いですか?確かに以前は領主様のお屋敷だったんですが…。十年くらい前かしら。一人息子のヨル様が行方不明になって…。なんでも、使用人とお菓子を買いに行ったっきり帰ってこなかったそうです。その使用人に誘拐されたんじゃないかって話だったんですけど」


十年前?お菓子を買いに?


「領主様のご夫婦は私財をはたいてヨル様を捜したんですけど、何の手がかりもなかったそうで。しかも、悪い人間につけこまれてお金をむしり取られたとか。そのあと、奥さまが流行病で亡くなられて…。領主様も、お屋敷で命を絶たれたんです」


女性の言葉が、どこか遠くから聞こえる。

あの日なのか?

私が置き去りにしたあの日?

ヨル様は屋敷に戻らなかった?

ではどこへ?


「新しい領主様は来なくて、この土地は隣の領地と併合されたんですよ。だからこのお屋敷は今は放置されて荒れてしまってるんです」


女性はぺこりと礼をし、重そうな足取りで立ち去った。

しばらく何を思うでもなくその後ろ姿を見ていたが、何もかも信じられなくて無人の屋敷に足を踏み入れた。


手入れをされていたのが遠い昔のようだ。


雑草が生えた庭を横切り、玄関ドアに手をかける。不用心にも鍵はかかっていなかった。いや、すでに何も警戒することなどないのか。

屋敷の中は、私の記憶に残るものとは全く違う様相だった。

全て売り払ってしまったのか、今の領主が運び出したのか、泥棒の仕業かは分からないが、美しい調度品や食器、絵画。すべて消えていた。


自分が過ごしていた使用人部屋。ここも荒らされていたが、本棚に置かれたいくつかの本は無事だった。

記憶をたどり、一冊の本を手に取る。

確か、この中に。


ヨル様がプレゼントしてくれた四つ葉のクローバー。そのクローバーで作った栞は、十年前と変わらずにそこにあった。


国に戻り身分を回復したことを引き換えに、私は大切なものを永遠に失っていたのだ。

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