11.契約書はきちんと読みましょう
空き地の整備が整い、家が建ち、漸く引っ越せる段階になった頃には木々の枯葉も落ちきり、厳しい寒さが到来する季節となっていた。
「よいしょ……っと」
ルーナは抱えていたダンボールを下ろし、がらんどうの室内を見回す。あるのはベッドとテーブル、それから引越し祝いにと建築ついでに備え付けてくれた薪ストーブくらいだ。
「ルーナ、この荷物で最後だよ」
ずっと重い荷物を運んでいて負担のかかっていた腰を拳で軽く叩いていると、開けたままにしていた玄関のドアから象牙色のパーカーを羽織ったソルが顔を出した。鼻の頭が寒さで赤くなっていて、口元をネックウォーマーへと埋めている。
ソルは開け放たれた扉に眉を寄せると、持っていた荷物を床におろし、ルーナに向き直った。
「玄関閉めときなよ。寒いだろ、風邪ひくよ」
「ひっきりなしに動いてたからわりと大丈夫! 手伝ってくれてありがとう」
「ならいいけどさ……でももう荷物終わりだから、閉めるよ」
ソルは後ろ手でドアを閉めると、積まれたダンボール箱の前に胡座をかき、指さした。
「荷解きも手伝う?」
「それはゆっくりやるから大丈夫! 時間もあるしね……もうお手伝いしに来なくていいって言われちゃったし」
どこか寂しげな表情で微笑んだルーナに、ソルは呆れたようにため息をついた。
「そりゃそうだろ。俺たちだってずっとルーナに頼るわけには行かないし、春になったらルーナもそれどころじゃなくなるでしょ」
そこまで言ったソルは、というか、と唇を尖らせた。
「そう思うなら、こんな急いで引っ越さなくても良かったんじゃないの……」
漏れ出た声がどこか拗ねたような色になってしまいソルは咄嗟に唇を噛んだが、ルーナは気付かずのんびりと答える。
「でも、準備期間としてちょうどいいかなと思って。今のうちにしか出来ないこともきっとあるだろうし。それに、暫くはご飯とかまたお邪魔しちゃうから申し訳ないよ……」
ダンボールからいくつかの食器を持ち出したルーナは、それをシンクに運びながら困り顔でソルを振り返った。そんなルーナを、ソルは目を眇めて一蹴する。
「当たり前だろ。まだ収入もなけりゃ作物も作れないのに、どうやって生きてくつもりだったんだよ」
「まあ、そうなんだけどね」
「牧場の経営をいつか成功させて、出世払いでいいって言ってたじゃん。気にせずそのまま受け止めればいいよ」
ソルは立ち上がり、ルーナの隣に寄るとその手元を覗き込んだ。
「で、何してんの?」
「お茶でも淹れようかなって。ソルくんは待っててくれて大丈夫だよ?」
きょとんとこちらを見上げるルーナからマグカップを奪い、ソルは腕をまくった。
「俺も手伝う」
短く言って、お湯を出しながらスポンジを手に取ったソルに暫く瞬いていたルーナは、やがて表情をやわらげお礼を言った。
「……ありがと、ソルくん」
「……春になったら、畑とか手伝うから。遠慮せず呼んでよ」
呼ばれなくても押しかけるけど、と何故か仏頂面で宣言したソルにルーナは目を丸くし、堪えきれず小さく噴き出した。不器用に優しい弟が、愛しくて。
引っ越してから一週間もすれば、元々そんなには無い荷解きも殆ど終わり、ルーナは日々勉学に励みながら比較的穏やかな日常を過ごしていた。
そんなある日、いつも通りノートを机に広げていたルーナの家に、来訪を知らせるノック音が響き、ルーナは大きめの声で返事をして立ち上がった。
「はーい。あっ、こんにちは!」
扉を開けると、そこに立っていたのはエクエスだった。
ルーナは特に驚くことも無く、彼を室内へと招く。
エクエスは黒いシルクのマフラーを解きながらコートを脱ぎ、土埃を払ってから部屋に上がった。
「紅茶で大丈夫ですか?」
「気にしなくていい」
「いえいえ、それくらいはさせて下さい」
にっこり微笑み、キッチンへと向かってしまったルーナをそれ以上引き止めず、エクエスは椅子の背もたれにマフラーとコートを掛けると、静かに座った。
ふと、無造作に放り出されたままのノートが目に入り、エクエスは頬杖をつきながら涼やかな眼差しで、紙面を踊る文字を眺める。黒いインクの他、あちこちに飛び交う赤や緑のインク、それから随所に見られる「?」の文字に、無意識のうちにエクエスの口許が緩んだ。
「お待たせしましたー……?」
ティーカップをトレーに乗せてやって来たルーナは、エクエスの様子に首を傾げる。ルーナからの位置では、彼の白い頬に落ちる長いまつ毛の影くらいしか視認できず、ただ、どこかその表情がいつもより柔らかい気がして。
少し、笑ってる? ……いや、気のせいか。
顔を上げたエクエスの表情は、いつも通り精巧な造りの人形のように整った真顔だったので、ルーナは自分の中の違和感を無かったことにし、エクエスの前に飴色の紅茶が注がれたティーカップと、申し訳程度の茶請けを置いた。
「勉強、順調なのか」
「え?」
自分の前にも紅茶を置き、エクエスの向かい側に腰かけたルーナは、その質問に首を傾げ、目の前にノートやらペンやらが散乱していることを思い出し慌てた。
「わっ、ごめんなさい汚くて……」
「いや、そのままでいい。よく勉強してるんだな」
ルーナは机の端にノート類を寄せながら、曖昧に頷く。
「はい……でもまだ、分からないことだらけなんですけどね」
そもそも説明文に出てくる単語が分からなかったり、一つ一つの事柄は理解出来ても、実際にどう応用するべきなのか見当もつかなかったり。
苦笑したルーナをじっとルビー色の瞳で見つめながら、エクエスは口を開いた。
「動物の世話なんかは経験がないから無理だが……経営管理関係であれば、多少は教えられる」
「え、」
「経理とか法律とか……そっちは少し齧ってるんでな。時間が空いてる時なら、相手してやれるよ」
そう言ったエクエスは、話は終わったと言わんばかりにルーナから視線を逸らし、紅茶へと口をつけた。特に照れてるわけでも、気まずそうにしているわけでもなく、平生と変わらないその顔色からは何も窺えない。
思ってもみなかった言葉に暫く呆然としていたルーナは、やがて咲き誇るように破顔した。
「……ありがとうございます!」
なんだか少し彼との距離が近づいた気がして、懐かなかった猫が心を開き始めたみたいだ、なんて言ったら怒るんだろうか、と心の中で思いながら、ルーナはぽかぽかと暖かい気持ちに包まれた。
暫しのティータイムを挟んだ後で、エクエスは半分ほど残ったティーカップを一度ソーサーに置き、改めてルーナを見た。
「フォルティスから話は聞いた。あそことは別に、契約を新たに結びたいと」
その言葉に、ルーナはこくりと頷く。
「はい。作物の種や、牧場仕事に必要な備品……きっとこれから、色々とお願いすることになると思います。そこでフォルティスさんが、自分たちを仲介するよりは直接やり取りした方が良いだろう、と教えてくださって……」
「そうだな。あの人のことだ、タダでやりそうだが本来であれば仲介が挟まる分、その手数料も発生する。こちらとしては一件納品場所が増えたところで大した手間ではないから構わない。それに、これからこういった事も増えるだろうから、丁度いい経験になるだろう」
ルーナの言葉を肯定したエクエスは、数枚の紙を差し出した。
「これが契約書だ。問題なければこことここにサインと、この朱肉を使って、拇印を隣に。わかったか?」
一番上に来ていた紙を、指さしながら丁寧に説明してくれるエクエスにルーナは都度頷き、「わかりました!」と返事をした。
そしてルーナは先程まで勉強に使っていたペンを手に取ると、早速署名しようとペン先を突き立て──その手首を、一回り大きいエクエスの手のひらに掴まれた。
「おい」
「えっ」
凛々しい眉が顰められ、じろりと睨まれたルーナは固まった。
「え、と、すみません、なにか間違って……?」
「まさか、何も確認せずサインするつもりか?」
後ろの紙をなんだと思ってんだ、と凄まれルーナは口を噤む。
勿論、それが契約内容の詳細が書かれた紙であることは分かっていたが、折角彼が来てくれている今のうちにサインしなければと気持ちがはやり、後で読めばいいかくらいに考えていた。
「いいか。契約する時は、ちゃんと内容を確認しろ。どんな理不尽な契約になっていても、言葉で騙されても、サインしたら双方の合意の元そこで成立する。あとからこんな内容じゃなかった、なんて戯言は聞き入れてもらえないんだぞ」
「はい……でもあの、エクエスさんだし、信用できるから……」
おずおずと上目遣いでそう呟いたルーナに、エクエスはため息をついた。
「バカ。そんなんじゃ、いつか悪い奴に騙されるぞアンタ」
エクエスはルーナからペンを取り上げると、契約内容が小さな字でびっしりと書かれた数枚の紙を目の前に並べた。
「どんなに仲良くても、何も確認せずあれこれサインするな。全員疑ってかかれ」
「ええ……エクエスさんのことも?」
困り顔のルーナに、エクエスは呆れの混ざった瞳で頷いた。
「無条件で信じられる人間なんて、作らない方が身のためだ」
そう答えたエクエスの瞳が一瞬澱んだように見えて、ルーナはそれ以上何も言えず大人しく契約書へと目を落とす。
契約書はいつでもいいから。エクエスに言われ、ルーナはそれから数日、知らない言葉が縦横無尽に泳ぎ回る契約書の内容に暫く頭を悩ませ、唸り続けることとなるのだが、この時のルーナには知る由もなかった。
一匹狼と一途な恋 ゆーのん @yunon0514
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