10.優しい痛み
新生活の準備は着々と進んだ。
家の外装を決め、発注し、建築している間にルーナはフォルティスから彼が昔使っていたという指南書を受け取り、牧場経営についての勉強を欠かさなかった。
朝は畑、昼は出荷業、夕方はレピデスから一般教養を学び、その後牧場についての勉強をこなしながら、家事の手伝いも欠かさない。
そんな生活を続けていると、当然ルーナの意思に反し疲れは溜まっていくばかりなわけで。
「……ナ……ルーナ……ルーナったら」
どこからかこちらを呼ぶ優しい声が聞こえた気がして、ルーナの長いまつ毛が震えた。
「……ルーナ、こんなところで寝てたら風邪ひくわよ」
揺りかごの中にいるようなやわらかい振動で身体を揺すられ、どこか遠くでその声を聞きながら、ルーナはまどろみの中で言葉を咀嚼した。
やがて、その意味を理解し急速に意識が現実へと引き戻される。
「……ッ!」
突然目を見開いて跳ね上がるように頭を上げたルーナの視界に、驚いた顔でこちらに手を伸ばすセインの顔が映る。
ルーナは混乱したように目を丸くしながら口を開いた。
「ごめんなさい私……! い、今何時……」
お昼休憩の時に、少しだけ仮眠するつもりだった。
しかし、窓から覗く空は暗く、お昼どころかかなりの時間が経っていることをルーナに報せた。
ルーナは青ざめ、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。その時、どこかで何かが落ちるような小さな音を聞いた気がしたが、そんなことには構っていられなかった。
「ほんとにごめんなさい、午後の仕事も、もう終わっちゃってるよね。レピデス先生は? 謝らなきゃ……」
こんなことは初めてで、何から手をつければいいのか分からず錯乱するルーナに、セインは困ったように微笑んでルーナの頭を優しく撫でた。その体温に、ルーナの心も少しずつ落ち着いてくる。
柔らかい瞳が、ルーナの混乱を溶かすように優しく見つめた。
「落ち着いて、仕事も勉強のことも、気にしなくて大丈夫だから。ずっと働き詰めで疲れてたんでしょう……そろそろお休みを取らせないと、とは思ってたのよ。だから敢えて暫く起こさなかったの」
「セインさん……」
「レピデス先生にも、今日はお休みでって言ってあるから平気よ。むしろ、あんまり無理するようなら家庭教師の時間に強制的に寝かせようかな、なんて言ってたわよ?」
笑顔で言ったのであろうレピデスの顔が想像出来て、ルーナは眉を下げた。先生なら、本当にやりそうだ、と思ってしまって。
「でもそろそろ日が落ちてきて、さすがに寒いだろうし椅子で寝てたんじゃ疲れが取れないでしょう? だから起こしたのよ。でも、まだお夕飯まで時間もあるし、自分の部屋でちゃんと寝直してきたら?」
腕に突っ伏すように寝ていたせいで、繊維の跡がついているルーナの頬を撫でながらセインはそう提案したが、ルーナは唇を引き結び、首を振った。
「ううん、もう大丈夫だから……お夕飯作るの、私も手伝いたい」
予想通りの返答にセインは仕方ないわね、といった顔をしながら、ルーナの横で少し屈んだ。
不思議に思い、ルーナがそちらを見ると、セインは手にどこか見覚えのある黒いジャケットを持っていた。
どこで見たんだったか……ルーナは暫く逡巡し、それが熱中症気味になったあの日、エクエスが貸してくれた彼のジャケットだと言うことに気づき驚く。
セインは微笑み、そのジャケットをルーナへと差し出した。
「昼に顔を出したエクエスさんが、あなたが眠ってるのを見て掛けていってくれたのよ。ルーナには、これを本人にお返しする仕事を頼もうかしらね。どう? できる?」
ルーナが飛び起きたことで肩からずり落ち、椅子に引っ掛かっていたのであろう。
ルーナはセインの言葉にまた目を丸くしながら、コクコクと頷き両手でジャケットを受け取った。
時計を見れば、いつもエクエスが帰ってしまう船の時間までもうあまり時間が無い。ルーナは急いで上着を着て、家を飛び出した。
船着場では、エクエスとフォルティスが話し込んでいた。
間に合った……。乱れた息を整えながら近づくと、フォルティスが初めにこちらに気が付き、背を向けていたエクエスもルーナを振り向いた。
「起きたのか、ルーナ」
声をかけてきたのはフォルティスで、ルーナは情けない顔になりながらこくりと頷く。
「フォルティスさんごめんなさい、色々サボってしまって……」
「ああ待て、謝るな。全くお前は、口を開くとすぐ謝るな」
顰め面になってしまったフォルティスに、ルーナはまた謝りそうになり口を噤む。そんなルーナに、フォルティスはふっと表情を柔らかくした。
「敢えて起こさなかったんだ、お前は悪くない。これに懲りたら儂らの意見を聞いて、ちゃんと休息を摂ること。わかったか?」
出荷業がお休みの日ですら、一日中勉強に畑の手伝いと休む間もなく何かをしていたルーナに、フォルティス達は少しは休んだ方がいいと提言はしていた。しかしルーナは大丈夫だからの一点張りだったので、その事をつつかれたのだと気づきルーナはばつが悪く、俯きがちに頷く。
「自分の健康管理も出来ないようじゃ、牧場主など務まらない」
横から氷柱で抉るかのように鋭い発言をしてきたのはそれまで黙っていたエクエスで、ルーナはショックを受けながらも反論の余地もなく、項垂れながらエクエスに向き直った。
それから、両手に抱えていたジャケットをおずおずと差し出す。
「ごめんなさい……。あとあの、これ、ありがとうございました」
すっかりしょんぼりしてしまっているルーナに、エクエスは僅かに眉根を寄せると、ルーナからジャケットを受け取り、俯いたままのその額に指先を伸ばした。
親指と中指で輪っかを作り、全く気付いてないルーナの額をそのまま──ピン! と弾く。
突然額に受けた衝撃に「いたっ!?」と小さく叫びながらルーナが後ずさると、エクエスは肩にジャケットを引っ掛けて、船の乗降口へと体を向けているところだった。
何が起きたのか分からないでいるルーナをエクエスの切れ長の瞳が捉える。
「あまり心配かけるなよ」
それだけ言うと、彼は身を翻すように船の中へと消えてしまった。
未だ呆然とするルーナの顔を覗き込み、赤くなった額を見て「あやつも容赦がない」とフォルティスは喉を鳴らして笑ったが、ルーナにはよく分からなかった。
彼の言った「心配」が、彼自身に掛かるのか、それともフォルティスやセインを指しているのか。
それがやけに気にかかり、ルーナはどこかもどかしい気持ちのまま、ゆっくりと出港していく貨物船を見つめるのだった。
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