01.家族
ルーナの一日は、まだ世界が薄闇に包まれている時間帯から始まる。十年以上のルーティンにより刻まれた体内時計で起床したルーナは、昨晩のうちにサイドテーブルに準備しておいた服を着て、軽く手櫛で髪を整えながらリビングへと向かった。
「おはよう、セインさん」
ルーナの隣室の主はまだ夢の中。足音を殺しながらたどり着いたリビングには、こちらも起きてきたばかりなのかまだ眠そうに目を瞬かせながらエプロンを着ける、栗色の髪を持つ女性が居た。
その女性──セインは、微笑んでルーナを迎え入れる。
「おはようルーナ。今日も早起きね」
「うん。今日は何をお手伝いしたらいい?」
袖をまくり、無垢な瞳で訊ねてくるルーナに、セインは一瞬困ったように眉を下げたあとで、手櫛で直りきらなかったのであろうルーナの跳ねた毛先を撫で付けた。
「いつも言ってるけど、もっと寝ててもいいのよ? ソルなんか朝ごはんが出来たって寝てるんだから」
おどけたように肩をすくめるセインにルーナはくすくすと笑い、しかし緩く首を振った。
「無理して起きてるわけじゃないし、それに私がお手伝いしたいだけから」
そう言われてまで断る理由もなく、セインは目の前のいい子すぎるくらいよく出来た娘の額に、ひとつキスを贈った。
「ん、今日は魚か」
「フォルティスさん、お帰りなさい!」
ほとんどの準備が終わり、ルーナが食卓に皿を並べていると、玄関の戸が引かれて一人の男が顔を出した。
フォルティスと呼ばれた白髪混じりの初老の男は、笑顔で出迎えてくれたルーナに表情を和らげながら、「ただいま」と返すと、部屋の中をきょろきょろと見回し、一転、眉間に皺を寄せた。
「……あいつはまた寝坊か?」
「あの子は本当ねぼすけねぇ……」
フォルティスに言葉に、セインも頬に手を当ててため息をつく。
丁度皿を並べ終えたルーナは、そんな二人を振り返って言った。
「私、声かけてくるね」
夢の住人が坐す方向を指さすルーナに、セインは困り顔のままひとつ頷いた。
「いつもごめんねぇ、お願いしてもいいかしら」
「はーい、任されました!」
頼もしく胸を叩いたルーナがリビングを出ていき、セインとフォルティスの二人きりとなる。
「……」
「……」
お互い無言のまま、ルーナの去っていった方向を見つめていた二人だったが、フォルティスが胡乱な目つきでセインを見た。
「お前、わざとあの子をソルの元にいつも向かわせてるだろ」
フォルティスの言葉に、セインは鈴の音を鳴らすように笑った。
「あら、だってあの子の反応可愛すぎるんですもの」
我が孫ながら甘酸っぱくてねぇ〜、と少女のようにはしゃぐ嫁に、フォルティスは何を言っても無駄だと悟りため息をついた。
年頃のいたいけな青少年の心を弄ぶなんぞ、女性は残酷だな……、と遠い目になりながら。
一方、リビングを出たルーナは先程足音を殺しながら通り過ぎたチョコレート色の扉の前までやって来ていた。
「ソルくん」
コンコン、ノックを数回。
部屋の主を呼びかけてみるが、数秒待っても応答無し。
「ソルくん、朝ごはんできたよ」
こんどはやや大きめの声で、またノック。応答無し。
「部屋、お邪魔しちゃうよー……?」
コンコンコンコン。
少しでも意識が覚醒していれば届くであろう声量で、しつこいくらいにノックしてみる。
だがやはり、返事はない。
これもまた毎朝のことなので、ルーナはドアノブに手を伸ばし、銀色のそれを躊躇いなく回した。
「お邪魔します」
室内はブルーで統一され、窓際、部屋の端に設置されたベッドの上に探し人は居た。
すやすやと気持ちよさそうに眠る主に蹴り飛ばされ、八割方地面にずり落ちている掛け布団を踏まないようにしながらベッドサイドまで近付く。
カーテンの隙間から時折洩れる光にむずがる様子を喉の奥で笑いながら、ルーナはソルの肩を軽く叩いた。
「ソルくん、朝だよ。起きて」
「……んぅ…」
「朝ごはんできてるよ」
やや大きめの声で耳元に喋りかけると、うんだかむうだかよくわからない呻き声が返される。閉じられた瞼は時々動くものの、開く気配はない。まだまだ深い夢の中のようだ。
ソルの耳元から一度離れ、腰に手を当てて考え込む素振りを見せたルーナは、次にソルの胴体をやや強く揺すった。
「おーきーてー、朝だよー」
ガクガクブルブル。ルーナの手の動きに合わせて右に左に体を揺さぶられたソルは眉間に強く皺を寄せ、「んんんんん……」と威嚇するような声を上げた。ここまでくれば、あともうひと息。
「ソ、ル、くん」
眠りを邪魔する手から逃れるために、寝返りを打とうとしたソルの動きを止め、ルーナが再び耳元へと唇を寄せる。
そして、囁くように名前を呼んだ後で仕上げとばかりに息を吹きかけると、目の前の肩が勢いよく跳ね上がった。
「……ッッ!?、?!?!?」
それまで縫い付けられたかのように閉じられていた瞼がカッと見開き、飛び上がるように少年の体が起き上がる。
現れた黄金色の瞳を混乱に染めながら、ソルは生暖かい感覚の残る己の右耳を手のひらで押さえた。
「な、なん……」
「おはよ、ソルくん」
「うわっ!?」
バクバク跳ねる心臓を宥めることに集中していたソルは、どうやらベッドサイドに立つルーナに気づいていなかったらしい。
や! と陽気に片手を上げて挨拶をしてきたルーナに、落ち着きかけていたソルの心臓はまたドコドコと騒ぎ始めた。
目を見開いたまま暫くルーナを凝視していたソルは、やがてじわじわと状況を飲み込み始め、微かに目元を赤らめながらルーナを睨んだ。
「ルーナ! 犯人はお前か!」
「今日の朝ごはんは魚の塩焼きと青菜のおひたしだよ」
「話を聞け! その起こし方やめろって言ってるだろ……」
くそう。項垂れたソルに、ルーナは朝食のメニューを諳んじるのをやめ、まだ赤い顔のソルを見下ろした。
「ソルくん、ぐっすりだったから。あの方法が一番成功率高いんだよね」
なんの成功率って、ソルが覚醒する成功率だ。
確かに朝食の時間にすら起きれず、毎朝のように同居人の女の子に起こしに来てもらっている自分に非があることは自明なので、ソルはそれ以上何も言えず口を噤んだ。
無言で俯いてしまったソルに、ちょっとやりすぎただろうか……とルーナが考えていると、叱られた仔犬のような瞳でソルがルーナを見上げた。それから、力なく手で追い払う仕草をする。
「……着替えるから、」
「ああ、はい。リビングで待ってるね」
さすがに人の着替えを覗く趣味はない。
ルーナはこくりと頷き、ひらひらと手を振ってからソルの私室を後にした。まだ火照りの残る顔で、一際大きなため息を彼がついていたことには気が付かなかった。
五分もしないうちにソルもやって来て、ようやくリビングにこの家の住人が全て揃った。
ソルはルーナの隣に座りながら、向かい側のセインを少し睨む。セインは微笑みでそれを交わし、こてんと首を傾げた。
「おはようソル。やあねぇ、怖い顔」
「……ばぁちゃんが起こしに来てくれればいいと思う。毎回言ってるけど」
「やだ。そろそろ親離れならぬ祖父母離れしないと駄目よ? それから、カッコ悪い所見せたくないなら、早起きできるようにがんばらなきゃ」
「別にそういう訳じゃ……!」
ファイト! と小さく握りこぶしを作ったセインに噛み付くソルの姿を見ながら、やっぱり自分に部屋に入られるのは嫌なのかな、とルーナはひっそり考える。
昔はそんなこともなかったのに、ここのところ、朝に部屋に立ち入られることを妙に嫌がっている節があるのだ。ルーナに心当たりはなかったが、彼に不快な思いをさせることはルーナの本意ではなかった。
ルーナが僅かに目を伏せたのを、どう受け取ったのか。セインに軽くいなされながらも立ち向かっていたソルは、ハッとした顔でルーナを見た。
「……ルーナ」
「ん?」
大人しく席に座り、やや控えめにルーナを呼ぶと柔らかい表情で返される。しかし、どこかその表情が寂しげに見えてソルは一瞬の逡巡ののち、僅かに俯きながら口を開いた。
「別に、部屋に来られるのが嫌とかじゃないから」
「そうなの? 最近、よく怒ってるから」
「それはルーナが俺の……っ、み、耳に息を吹き込むからだろ!」
叫んだことで生々しい感触を思い出してしまい、熟れたトマトのように真っ赤になりながらソルが叫ぶ。そんなソルをぎょっとした顔でフォルティスが凝視したことには誰も気づかなかった。
ソルの言葉に、ルーナはこてんと首を傾げる。
「? でも、毎朝の事じゃない」
「毎朝びっくりしてんだよこっちは!」
「えー……じゃあ、駄目なの?」
「駄目!」
あんなに心臓に悪い起こされ方をするくらいなら、多少腫れてもいいから引っぱたいてでも起こして欲しい。そんなソルの決意が伝わったのか、暫くソルの瞳を見つめていたルーナは降参するかのように両手を挙げた。
「わかった、じゃああれはもうしない。……折角セインさんに教えてもらった必殺技だったけど」
セインさんの言う通り、効果抜群だったんだけどなあ。
呟いたルーナの言葉に、またギョッと目を見開いたフォルティスが今度はセインを見る。ソルは黒幕が己の祖母と知り、恨みを込めた目でセインを睨んだ。
「あらあら」
しかし当の本人は何処吹く風である。フォルティスは、諦めろと諭すようにソルに視線をやり、眉を下げたのだった。
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