酔いたい夜

 顔を見た瞬間,固まって動けなくなった。

 お互いに。



「こんにちは,豊田くん。・・・・・・どうしたの?」

「いや,その・・・・・・近くまで来たからさ」



 この前までは「清介くん」と呼んでくれていたのに,今は名字だ。その事実が一層おれの心を重たくした。

 何を言えばいいのかも分からず重苦しい沈黙が訪れた。

 途端に,背中に重たい衝撃が走る。

 痛っ,と口から声が漏れるのを必死でこらえ,後ろに立っている大貴を睨んだ。大貴は,胸を張れ,と合図を送っている。そして,腕を曲げて力こぶを作った。


 思わず笑いがこぼれ出る。

 いつの間にかおれはこの状況に怯え,猫背になっていた。でも,今までのおれとは違う。なんてったっておれは,この数日間で言えば同級生の誰よりもプッシュアップを行ってきたんだ!



「え? プッシュアップがどうしたの?」



 しまった! また心の声が漏れてしまった。この癖だけは本当にどうにかならないのか。

 不思議そうな顔をして顔を傾ける美緒ちゃんに,必死で言い訳にもならないごまかしを出まかせに言う。くそ,この困った感じで顔を傾けるしぐさすら愛おしい。

 再び惚れ直しているおれの後ろでは,大貴とシーマンが笑っているのが背中越しでもわかる。


 ええい,もうどうにでもなれ! 

 おれは胸を張り,怪しい目を向ける美緒ちゃんに向き合った。



「美緒ちゃん,この前はありがとう。おれ,美緒ちゃんのこと好きだなって思いが余計に強くなってさ。もしよかったら,振られてすぐに何なんだけど,その・・・・・・」



 のどが締め付けらているように息苦しい。大きく息を吸って,覚悟を決めた。



「もう一度デートをしてください!」



 手を差し出して,お辞儀をしながら言い切った。

 おれは変わったんだ。そのことが少しでも伝わっていたら,いい返事がもらえるかもしれない。

 顔を見るのが怖くて視線を足元から上げられずにいると,美緒ちゃんが動く気配がした。


 頬を緩めて彼女の方を見ると,目の前では般若のお面をかぶったような顔をして口を尖らせている女神がいた。ああ,怒りを露わにしてもなお美しい。ミロのヴィーナスも嫉妬する神々しさだ。



「言ったでしょ。私,女の子が好きなの。それに・・・・・・」



 興奮した様子で肩で息をしながら続ける。


「なんでオートロック解除して入ってきてるの? まじできもい。無理」



 次現れたら警察呼ぶから,と叫びながら扉を閉められた。

 廊下に扉が閉まる大きな音が鳴り響く。

 こうして,おれの恋は終わりを告げた。





「大往生やったんちゃう? よくやったと思うねんけどなあ」



 第三者は他人事でいいよな,とぶっきらぼうに言って,ロックグラスに入ったジンを煽るようにのどの名がした。アルコールが食道から胃へと降りていくのが分かる。



「男は失恋してなんぼやで。そうやって大きく,優しくなんねん。ほら,サービスや」



 マスターがお皿に入った燻製のチーズや練り物が載った皿を差し出した。いいにおいがする。こんなおしゃれなものを置いていたなんて知らなかった。



「ありがとう。でも今は,あのくそまずい湿気たほくほくのポップコーンが食べたいな。おれにぴったりだ」



 そうか,と言ってマスターは皿をカウンターに置いて,厨房へと下がった。

 うめ,と大貴は燻製のチーズをつまみ,シーマンのためにも練り物を細かくして水槽に入れていた。 



「普通に飲みに来るより,清介を慰める会でバー・スリラーに来ることの方が多いやんな」

「ほっとけよ。プロ野球だって三割打てたらいい方だろ」

「バスケはフリースロー外したらブーイングやけどな」

「おれの恋はそんなに甘いもんじゃなかったんだよ。ツーストライクで急にピンチヒッターを告げられて打席に立ったようなもんだ」

「勝負強い男やったら,そこできっちり決められるんやけどな」

「お前はおれを慰めに来たんじゃないのか!」



 厨房から戻ってきたマスターにジンのお代わりを頼み,ポケットから煙草を取り出した。



「だいたいな,悪かったなとか思わないのかよ。オートロックをなぜか解除して部屋の前に現れたんだ。そりゃ誰だって気味悪がるさ。送りつけられた荷物の中に謎の魚が入っていた時ぐらい気味が悪い」

「おいおい,それが原因だと思ってるんやったら,煙草のせいでとうとう頭がやられたんやな」



 口にくわえ煙草に火をつけようとすると,手を伸ばした大貴にむしり取られた。



「返せよ。てか,正解は何だったんだよ」

「今回の件で気付かんにゃいけんことがある」



 シーマンが会話に割って入ってきた。もう大貴がシーマンを連れまわすことに何の抵抗もなくなってきたが,ほかの人が見たらどう思うだろう。そう思うと,バー・スリラーが人気のない穴場で助かった。マスターだからこそ何でもないようにしているけど,普通に人が見たら騒ぎ立てるに違いない。



「なんだよ,気付かないといけないことって」



 うまい,と言いながらシーマンは燻製されたちくわをパクパクと食べている。注意がそれるのが早すぎる。水槽をトントンと叩いて,話の続きを促すと,シーマンはやっと食べるのをやめた。



「世の中にはのぅ・・・・・・」



 話し始めたシーマンの目の前に,水面に浮かんでいた練り物がひらひらと落ちていった。シーマンはそれを追って水槽の底へと潜っていった。


 こんなやつに教えを請う自分が情けなくもあるが,辛抱強くシーマンに付き合うことにした。



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