エントランスホール
朝日に目を細めながら,おれは北大路通りをジョギングしていた。なんとなく通る道も,気にしてみると美味しそうなお店があったり,おしゃれな雑貨屋さんがあったりと,新しい発見がたくさんある。何よりも驚いた発見と言えば,自分がこうして朝から身体を鍛えるために運動をする気力があることだ。
「自分を変えたいんなら,まずは見た目から変えるんよ」
そんなことで解決するか,と話半分で聞いていたが,いざ実行に移すといろいろな変化があった。
まず,心が軽い。
今までのおれの堕落した生活っぷりは,ナマケモノも呆れて自分に誇りを持たせてもおかしくないようなものだった。
朝なんて来なければいいのに,と思いながら気づけば寝落ちをして,一限目が終わるころに目が覚める。もう授業には間に合わないのだからと開き直って,ベランダに出て死んだ魚のような目をして赤マルをふかす。そうしているとかなりの確率でスマホに通知がくる。
すまん。出席カード出しててくれへん?
わずかな可能性を期待した大貴から連絡が来るのだが,おれは決まってインカメで自撮りの動画を撮影し,ケカメラに向かって副流煙をぶちまける。
しばらくすると,
臭いねん。イソジンの風呂にでも浸かってそのままおぼれ死ね
やらなんやら汚い言葉が帰ってくるのを楽しむ人生だ。
昼前の授業にはなんとか出ようと決心したはずなのに,煙草をふかしながら携帯ゲームをしているといつの間にやら夕方になっていたなんてこともざらだった。
それがどうだ。
朝日とともに目覚めて活動することがこんなにも人間らしくて素晴らしいことだとは!
「朝からおっきな声出してから,恥ずいねんけど」
うわあ,と思わず声を荒げた。
いつの間にか隣で大貴が並走している。虫かごほどのサイズの水槽を紐でくくり,たすき掛けにして。
「いや,重いだろ。初めてのキャンプにぬいぐるみを持って行く小学生じゃないんだから,家に置いてこいよ。てか,狭そうだぞ」
「わしのことは気にせんでええけん。じゃけど,『こんなにも人間らしくて素晴らしいことだとは!』って言ってることは気にした方がいいな。ビックリマーク付いとるし,結構恥ずかしいけん」
「おれはそんなこと思ってもいなし,断じて口にしてもいない」
恥ずかしくなって弁解しても,「京都市内に響き渡っていたぞ」と聞く耳を持ってもらえない。おれの癖はそんなにひどいのか。おちおち考え事もできない。
「気持ちは整ったの。ほんなら,行くで」
「行くってどこに?」
決まっとるじゃろ,とシーマンは楽しそうに言い,こっちや,と大貴に指示を出した。
おれは今,膝を震わせながらアパートの前に立っている。
オートロックの備わったガラス扉の向こう側には広々としたエントランスがあり,名前も知らない高級感のある観葉植物や,座り心地がよさそうなソファが置かれている。
もちろん,おれのアパートではない。
「なんで美緒ちゃんのアパートに来たんだ? ってか,なんで知っているんだよ」
「わしゃなんだって知っとる。それより,覚悟は決まったか?」
覚悟,そう呟いてから,水槽を持った大貴に尋ねた。
「何の覚悟だ? それに,お前は女子がポーチを持ち歩くみたいに水槽を持ってるが,そうでもしないと落ち着かないのか?」
「清介,この数日間何のために腕立て伏せしてん。サスケに出るためちゃうやろ?」
「自信をつけるためにひたすら腕立て伏せをした。ついたのは筋肉だけどな」
言いながら,たった数日間の筋トレでは大して筋肉量が増えたわけではないのは分かっていた。
でも,マッチョがやたら脱ぎたがったり,松本人志がぴちぴちのシャツを着たがったりする気持ちが何となくわかる。体の内側から溢れ出る自信,まとうオーラ,それが自分を大きく見せ,人の上に立つべく男の風格を醸し出しているような錯覚に陥らせるのだ!
「『陥らせるのだ!』じゃないんよ。大貴,番号押しちゃれ」
また心の声が表に出ていたのか! 恥ずかしくて悶絶しているおれをよそに,シーマンは大貴に番号を告げた。
大貴は興奮しながら,言われるままにインターホンが付いたオートロック解除ボタンを手際よく押している。
ピーッ,と無機質な高い音が鳴り響くと,エントランスへと続くガラス扉が開いた。
「まさか・・・・・・オートロックを解除したのか?」
おー,と感嘆の声をあげる大貴と,ご機嫌そうに口から泡を吐くシーマンの前立ちふさがる。
「いったいどうなってるんだよ! 無理無理!」
「急にネガティブやな。プッシュアップいっとくか」
「上半身裸の方がええかもしれんの」
「一人やったら恥ずいやんな? おれも脱いだるわ」
大貴は水槽を床に置いて,Tシャツを脱ぎ始めた。
「待て待て。分かったから,行から服を脱ぐのはやめてくれ」
それなら最初からそうしろよ,と楽しそうに大貴は服を着て水槽を抱え直す。水槽の中ではシーマンがひれで身体をこすりつけていた。
まさかこいつ,うろこでも落とそうとしていたのか?
ため息をつきながら,先へと進む大貴たちの後をとぼとぼと追いかけた。
「せめてエントランスに戻って,部屋のインターホン鳴らしてから行かない?」
そう問いかけると,大貴は階段のエレベーターに向かう途中で水槽を床におろし,Tシャツの裾に手を掛けた。
「分かった! もう何も言わないから! だから脱がないでくれ!」
なるようになれ! 半ば投げやりになって,筋肉痛の胸筋をそらしながらエレベーターへと乗り込んだ。
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