正しさとは
「フィンガーボウルを口に含んだのに気付いたホストの女の人は,驚くべき行動を取ったんよ。何か言うたら,ホストやで? 要するに接待する側なんじゃけ,文化を理解しとらんはずはないんよ。それなのに,その人は同じようにフィンガーボウルを手に取って,美味しそうに口に含んだんじゃけ,周りも仰天よの」
なるほどな,と感心した。
招かれた客は,目の前に置かれた水が手を清めるものと知らなかったのだから,間違いを犯したことにすら気付いていないだろう。おれがその場にいても,まったく同じように飲み水と勘違いしていたはずだ。
問題は周りの人間だ。
気分を害する者。
嘲笑する者。
人前で指摘する者。
その時にどのような行動を取るかで,人間性が現れるに違いない。おれは,その場で唖然としてあたふたしている自分を思い浮かべ,情けない気持ちになった。
「この行動を清介はどう思うんや?」
「配慮ある行動だと思う」
「どうしてや?」
「正しい主張って,それだけで刃物のように人を傷つけることがあると思う。だから,人の間違いに気づいたときに,相手の気持ちを考えてどのように振る舞うかを考えることってとても大切だと思うんだ。だから,その女の人のような行動を取るべきなんだ」
椅子が勢いよく動く音がしたと同時に,大貴が立ち上がる。ウイスキーを一口含み,「おれは違うと思うねんけど」とグラスを置いた。
「確かに,その女の行動は配慮ある行動や。でもな,優しさをはき違えてるんちゃうかなって思うねんけど。ほんまにそれは,優しいって言ってええんか?」
「ほう,詳しく聞かせてみい」
シーマンは愉快そうに先を促した。
大貴は何を言おうとしているのだろう。本当の優しさ? 半分酔っぱらっているとはいえ,こいつの口からそんな道徳的な言葉が出るとは。雪でも降っているのではと窓の外が見たくなる発言だ。
「間違いに配慮したっていうけど,その後そいつは知らんまま過ごすんか? そっちの方がよっぽど恥ずかしいやろ。伝えるタイミングを考えて後で二人の時にこそっと言うんならまだ分かるわ。でもな,その時,手を洗う水を一緒になって飲んだ事実は変わらんやろ? そんなことさせるなんて,おれやったら罪悪感で耐えられへんな。なんでその時言うくれへんかったんやって思うわ。しかもやで,ホストの女がその,なんや? ピンキーリングを飲んだ時,周りのやつはどう反応したらええねん。一緒になって飲まなあかんのか? まさか手を洗う訳にはいかへんし。そんなん,押しつけやろ」
「フィンガーボウルな」とシーマンはすかさず訂正を入れたが,相変わらず楽しそうに話を聞いている。かと思うと,急にこっちを向いて顎でしゃくった。お前はどう思う? ということらしい。
「分かんねえよ。おれに意見を求められても」
「・・・・・・なんや,おもんな」
話は終わりだ,というように大貴は席につき,ウイスキーをあおるように飲んだ。
昼間っから酒を飲む男より,なぜか自分の方が何倍もくだらない人間に思えてきた。
「清介,お前には自分の軸がないんよ。じゃけえ,自信もないし女もよってこん。いい加減,気付かにゃいけん」
諭すように,そして冷たい声でシーマンは言った。
言われていることは,何となくわかる。正しいのだと肌で感じる。だからこそ,悔しくて腹立たしい。
「どうしろって言うんだよ。てか,その話が何の関係があったんだ?」
そこから説明せんといけんのんか,とシーマンはうんざりしたように顔をしかめ,「じゃけえの」と続けた。
「わしがダビデ像のことをわざと間違えた時のリアクションを確かめたかったんよ。ほんなら,案の定じゃろ? こりゃ,フィンガーボウルの話をして考えさせないけんいうて思ったんよ」
それは嘘だろ! と心の中でツッコミを入れ,Tシャツを着ながらそもそもの話をした。
「分かった分かった。で,なんでおれは筋トレをさせられたんだ?」
「鏡,見てみい」
シーマンに言われるがままに鏡の前に立ち,全身を眺めた。
ほとんど運動とは無縁だったおれの身体は,肥満体質ではないのだが反対に線が細く頼りなさがある。それでも,筋トレを追い込んだ成果もあって,筋肉が張ってほんの少し盛り上がっていた。
上腕と胸襟を撫でながら,このまま鍛えたら見た目にかなり変化が出そうだなと思った。
「まだ自分に酔うには早いじゃろ」
「別に酔ってねえよ」
「いや,酔っとる。顔もむくんできとる」
「それは昨日,バー・スリラーで飲みすぎたせいだ。って,それとは違うだろ」
きりがない。いったいこいつは何が言いたいんだ。
「どっちにしろ,少しだけ自分が変わったのが分かるじゃろ?」
「まあ,体つきが変わったというか,変わりそうというか・・・・・・」
「そうじゃなくて,心持ちの話をしとる」
「心持ち?」
「心構えとか,気構えとかじゃ」
もう一度鏡を見てみた。
確かに,目の前にいる自分は今までの自分と違うような気がしてきた。それは,体の変化というものも影響しているのはもちろんのことだが,このままトレーニングを続けてもいいのではないか,という気持ちと,努力する自分に少し自信を持っていけそうな気までしてきた。
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