フィンガーボウル
「まだやれる! もうだめじゃと思ったところからか勝負じゃろうが!」
「何甘えてんねん。出来ひんと思ってるんは清介だけやぞ。なんでそこで踏ん張れへんねん」
殺してくれ! と叫びながら、フローリングにうつぶせに倒れこむ。ひんやりとした感触がTシャツを通して火照った身体を冷ますのが気持ちよくて,椅子に座ってヤジを飛ばす大貴のヤジも,なぜか水槽ごと背中に乗っかって重しになっているシーマンもどうでもよくなってきた。
奇跡的に水槽は落下することなく背中に乗せられたままだが,降ろす体力もない。
「よし。根性なしにしてはようやった方じゃろ。服脱いでみい」
「なんで服を脱ぐんだよ。それより大貴,さっさとこいつを下ろしてくれ」
もう終わんのかよ,と涼しい顔をして水槽をどけた大貴の頬は,ほんのりと赤らんでいた。
こいつ,昼間っからウイスキーを飲んでやがる。しかもおれが楽しみに取っておいた少し高いやつじゃないか!
肺いっぱいに酸素を取り込む。呼吸を整えてから立ち上がり,蒸気がでているのではと感じるほど蒸して噴き出る汗をぬぐって椅子に座ると,目の前にプラスチック製の大きなコップが置かれた。
「なんだよこれは」
「分からんのんか。筋トレしたらプロテイン。風呂上がりのビールぐらいマッチした取り合わせじゃろうが」
「おれはボディビルダーになるつもりはない。酒をこよなく愛したおれは,眠りにつく前に酒,眠気覚ましに酒,飲みすぎでむかむかしても酒,何かの手違いで筋トレをした後も酒なんだよ」
そう言って,テーブルに置いた赤マルに手を伸ばす。ソフトケースから一本煙草を取り出し,ライターの火を当てた。
「おれの前で吸うなっつってんねん」
「ここはおれんちだ。嫌なら出てけ」
露骨に嫌な顔をする大貴を無視して肺いっぱいに煙を入れ,天井に向かって息を吐く。頭の中がクリアになったような爽快感に包まれた。
初めは大貴に気を遣って,こいつの前では煙草を吸わないようにしていた。でも,今さらそんな関係性ではない。大貴の生い立ちを思えば同情する気持ちが湧かないわけではないが,いいかげんこいつも過去とは決別するべきだ。おれはあえて,こいつの前でも煙草を吸い続ける。
いらいらしたように大貴は貧乏ゆすりをして,テーブルの上の赤マルに手を伸ばしてごみ箱に放り投げた。
「なにすんだてめえ!」
「このご時世,室内で吸うたらあかんやろ! だいたい,ルパンの次元に憧れてへちゃげた煙草を吸うやつがどこにおんねん。永遠のゼロを見て坊主にする男ぐらいあほや。せめて電子タバコにせい!」
永遠のゼロの岡田准一に触発されて坊主にしたのはお前だろ,と心の中でツッコミを入れて煙草の火を消した。
大貴は髪をかき上げて,とりあえずそれでよし,とでも言いたげに一つ頷いた。でこのあざがあらわになったのに目が行ってしまい,不自然に視線を逸らす。
「で? 説明してもらおうか。おれはなんで生まれたての小鹿みたいになるまで,ひたすら床を見ながら上下運動を繰り返しやらされていたんだ」
言いながら腕がぷるぷる震えてきた。これは肉離れだな,と引き裂かれるように痛む胸筋を震える手でさすりながら考えた。
これは一体どういう状況だ?
気づけば,パンツ一丁で部屋に立たされている。
「おれは今,恐怖を感じている」
「己の肉体美にじゃないじゃろうの。デジャヴじゃあるまいしのう」
大貴ですら,頭の上にはてなマークが飛び交っており,おれとシーマンの間で視線を泳がせ,部屋中が騒がしい沈黙に包まれた。
「・・・・・・もしかして,ダビデ像のことが言いたかったのか?」
シーマンは分かりやすく顔を赤くした。水槽は蒸発するほど水温が上昇しているに違いない。
シーマンが何かをつぶやきながらぐるぐると水槽を泳いでいる間,大貴の笑いをこらえる音がリズミカルに聞こえていた。
しばらくすると,観念したようにシーマンはこっちを向いた。
「失格じゃ」
「・・・・・・え?」
「じゃけえ,失格じゃって言いよるんよ」
「何が失格なんだ?」
こぽぽ,と口から気泡を漏らした。どうやら,いつもの説教モードに入ったらしい。
「フィンガーボウルって知らんじゃろ」
「なんだよそれ」
「ほんま,何も知らんやつじゃのう」と呆れたようにシーマンは呟いた。
「昔,ヨーロッパでお偉いさんたちが集まってお食事会をしとってな」
何の話をしているんだよ,と遮りたくなるのをこらえ,辛抱強く話を聞くことにした。
「ほんでな,そのホストの国での文化で,テーブルにフィンガーボウルっちゅう指先を洗うための容器があったんじゃ。でもな,そのお食事会には色んな文化圏の人がおったけん,一人フィンガーボウルを知らん人もおったんよ。ほんで,そのお食事会の最中で事件が起きたんよ」
シーマンが長すぎる間を取ったので,事件について考えてみた。
考えを巡らせていると,「清介ならどうするか考えてみい」と言って話の続きを語り始めた。
「食事会の中にいた人の一人が,フィンガーボウルに手を伸ばして,なんとじゃ!」
魚の体のつくりとしてはあり得ないほどに目をカッ、と開いてシーマンは続けた。
「フィンガーボウルの水を飲んだんよ。手を清めるためにある水をど」
こてこての広島弁で話をされると頭に入りにくいような気がしたが,必死で状況を思い浮かべた。
当の本人は何気ない行動をとったかも知れないけど,周りは相当驚いたし,中には不快に思った人もいるかもしれない。
「大事なんは,この場面で清介ならどうするかっちゅうことじゃ」
その場面にいる自分を想像してみた。
おれならそこで,どうするだろうか。
考えは浮かばない。きっと,スタバでかっこつけていたみたいに,何もできずにあたふたしていたに違いない。
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