バー・スリラー
異様な光景が広がっていた。
大貴とシーマンは,お互い不思議な生き物を見るように見つめ合っている。嵐のようなその沈黙は,風を巻き上げずとも空気の流れを加速させ,視線のぶつかったところでは電流がばちばちと音を立てて火花を放っている。
縄張り争いをするサバンナのライオンは,きっとこんな風に殺気立って相手を威嚇するのだろう。
「なんや,お前」
「こっちのセリフじゃ,ぼけ」
「ぼけ? なんやねん,そのものの言い方はないんちゃうか? おれはさっきまで,桜の木に寄りかかって自己啓発本を読んでてんで。しかも,そんな自分に酔っててん。明日は二日酔いで苦しみそうな酔い方や。本を読めるという点において,証明せずとも水の中が生活圏内のおたくよりも知能的には優れてる可能性は高いやんな?」
「訳の分からん事言うなや。水の中で生活しとるんは,知能をさげることにはならんじゃろうが。わしなんか,お前が本を読んだフリをしとることも知っとるし,人の会話を盗み聞きする能力があるじゃ。文字も読めんお前に負けるわけがなかろうが」
「人の話を盗み聞きできるのか!」
おれと大貴は同時に興奮しながら声を発した。
「今すぐどこかへ行ってしまえ!」
「今すぐ女風呂の会話を盗み聞きしろ!」
気味の悪い能力から離れたいおれと,その能力を使ってよからぬことを企んでいる大貴の声が重なる。女風呂の会話を聞いて何になるというのだ。大貴の思考回路が,知恵の輪のように難解であることはさておき,今解決すべき問題はこの魚だ。
こいつはやはり,おれの言動を全て見ている。プライバシーもくそもない。今すぐ道路に投げ捨ててやる!
水槽ごと灼熱のアスファルトに運ぼうとしたが,さっきまで殺伐としていた空気が和らいでいる。
大貴は鼻の下を伸ばして,水槽を撫でながらシーマンに何かささやいていた。
ジントニックを舐める。古い炭酸で作られたせいか,のどごしもすっきりとした爽快感も弱い。それでもおれは,京都市北区の交差点に面したこのバーによく来る。大学生が抱える,カレー味のうんちとうんち味のカレー問題ほどくだらない悩みを語り合うには,ちょうどいいチープな場所だ。
「ほんまついてないやんな。惚れたた女がレズっちゅうんわ。セクシャルマイノリティの認識が広がりつつあるねんから,別に驚かへんけど。そうは言うてもレズビアンの子が,男の中の男,カモの中でもネギをしょってる,井の中の蛙で大海を知らへん清介くんと両想いっちゅうんや。まあ珍しいことやで。つちのこを見つけるより,ネッシーに遭遇するよりも難儀なこっちゃ。おたくの人生,世にも奇妙な物語やな」
「酔ってんのかよ。べらべらとうるせえなあ」
酔うために来てるんちゃうんけ,と大貴は愉快そうに笑って,ショートカクテルを飲み干した。「くう,生きてるっちゅうんは,アルコールがのどを通るのを肌で感じることやんな」と訳の分からない人生哲学を語りながら,酔っぱらったマスターに同じ飲み物を注文した。
ここ,バー・スリラーが行きつけになった理由はいくつかある。
一つは,値段がとにかく安いこと。チャージ代もかからないし,ドリンクも他では一杯千円ほどするものも,その半分以下の値段で飲める。要するに,貧乏学生にはもってこいの場所だ。
あとは,行きつけのバーというステータスにあやかったり,しけたポテトチップスを出すくせに,ポップコーンはほかほかで病みつきになったりしたということもある。
何より,接客もくそもない下品な雰囲気のマスターは,よくお酒を飲んでカウンターに突っ伏している。そんな愛すべきマスターのチャームポイントにも惹かれたのかもしれない。
「マスターに,いつもの出してや」
「ほんまに好きやなあ。まあ,わしのポップコーンを食うたもんは,みなポップな気分でコーンと一緒にはじけちまうしな」
「ちゃうちゃう。家で空けっぱなしにしてても出せへん,あのしなしなポテチが食いたいねん。ぬれせんべいに劣る根性の無さのくせに,いっちょ前に乾ききったドライな触感を,口の中で潤すのが最高やねん」
「やっぱ自分,通やなあ。あっぱれや」
訳の分からないことで意気投合している二人をしり目に,おれはため息をつく。ポテトチップスを出したマスターは,「今日は二人して何してたん?」と尋ねてきた。
話しても信じてもらえないだろうし,何となく話すべきではないという気もして言葉を選んでいると,大貴はシーマンについて語り始めた。
「おいおい,その話はいいだろ」と大貴の話を遮ろうとすると,盛大ないびきが聞こえてきた。マスターはカウンターに突っ伏して,のび太も驚く速さで深い眠りに入っていた。
「大貴,おれたち以外の前で,シーマンの話をするのはやめよう」
大貴は口を尖らせ,横にある水槽を撫でた。
「なんでやねん。こいつめっちゃおもろいやん。もうおれたちはこいつと共に生活する運命やねんから,周りに紹介するのも当たり前やん」
「そこなんだよ」
おれは目が泳ぎ始めた大貴の肩を揺さぶり,意識を取り戻させた。そして,大貴の隣の席を指さして言った。
「どうしてこいつを連れてくるんだ。ここはバーだぞ。魚は家でお留守番がスジだ」
シーマンはカウンターの上に水槽ごと置かれて,店の光を追いかけるようにのどかに泳いでいた。
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