アハ体験

「シーマンだ」


 ドイツの心理学者が,このいいようもなく気持ち良い瞬間に素敵な名前をつけてくれている。おれはそのことに感謝した。

その名前も知らな心理学者がつけた現象の名前は,アハ体験。


 幼いころ,不気味なコマーシャルを何度も目にした。魚がテレビ画面の中を泳いでいて,餌をもらって成長していく,何に達成感を得たらいいのか分からない奇妙なゲームだ。



「シーマンだよ。お前の名前は」

「シーマン? なんじゃそりゃ。海の”シー”に,人間の”マン”か?」

「そういうこと。他の魚と差別化がはかれていいだろ?」

「ほうか。それならシー・ゴッドとかもええんじゃないか? いや,せっかく付けた名前じゃ。堪忍したろうか」



 変に機嫌を損ねるのもめんどくさいと思って適当に流したのに,シーマンは思ったよりご機嫌なようだ。気持ちよさそうに水槽を旋回している。



「ところで清介」

「・・・・・・なんでおれの名前を知っているんだ?」

「シーマンなめんなや。そんぐらいのことはお茶の子さいさいじゃ」



 気持ち悪いと思いながら,部屋の中を見回す。何かの拍子に名前に気づくこともあったのかもしれない。なんていったってここはおれの部屋だ。個人情報の宝庫でもある。


 しかし,この後のシーマンの言葉におれは言葉を失い,全身が泡立った。


「清介,さっきのツッコミ良かったで」

「なんだよさっきのツッコミって」

「おれの身体はピタゴラスイッチか!! ってやつ。そこそこのボキャブラリセンスに加えて,鼻から血を垂らしながらあほみたいなこと言ってるんやもんなあ。目をカッと開いて。ほんま笑けたわ」



 家についてからの出来事を思い出す。シーマン,と声にならない音でつぶやき,頭を抱えた。いったいどうなってるやがる。



「お前,あの時部屋にいなかっただろうが! 何で知ってるんだ!?」

「清介,すべてお見通しじゃ!」



 奇声を上げながら後ずさりすると,手に何かが当たった。手元を見ると,焼酎の瓶だ。


 一息に飲んでやろう。そうしてゲップをせずに歴代総理大臣の名前を言いきってやる!


 訳も分からず一発屋芸人のギャグが頭に浮かんだが,すぐに首を振る。


おれは歴代の総理大臣,二人しか知らねえ!



「清介,お前やっぱり頭おかしいんじゃないか? 思考回路が単細胞じゃ」

「ギャー,思考まで読めるのかよ! 殺してやる!」


 

 瓶を手に取り,意を決して水槽に近づく。



「待て待て! それは誤解じゃ! お前はさっきから心の声の全てを,声帯を震わすことで表出させとる。お前の頭の中が知れるのは,わしの特別な能力ゆえということは断じてありえん。すべてお前の悪い癖のせいじゃ!」



 しまいには二人してお互いを罵りあっているうちに,猫が暴れた後のように部屋の中は散らかりあげていた。



 


鴨川に並ぶ桜の木の下で,そよ風に髪をなびかせながら読書をしている青年がいた。今日は風がよく吹く日だ。


スウェット生地でできた七分丈のベージュのパンツはユニクロとは違う素材感を感じさせ,日の光を照り返すような白いシャツにはアイロンが綺麗に掛けられている。八月に入ってからぐんぐん気温は高くなって35℃に迫ろうというのに,淡い桃色のスツールを首にかけている。もちろんこの時期に桜など咲くはずもないが,腰かけて美しいたたずまいで読書をしているその様は,華やかな桜を思わせた。



その青年に近寄って,声を掛ける。と同時に,胸ぐらを掴んで無理矢理立ち上がらせた。



「こんなところでのんきに何をしてやがる。訳の分からないものを届けさせやがって。さっさと取りに来い大貴! おかげでこっちはめちゃくちゃだ!!」



 突風が吹いた。勢いに任せて立ち上がった大貴は,風に打たれてスツールが飛んでいかないように抑えるので必死になっている。あらわになった斑点状の額の傷を見て,暗い気持ちになる。いや,ここで風を吹かせたことさえ大貴の作戦かもしれない。こいつはそう思わせるほどしたたかで,自分の目的を果たすためなら天狗のように天候を操りさえしかねない。



「何をしているって,それはこっちのセリフや。忍びのごとく気配を消して近寄り,標準語で恫喝した挙句に田淵大貴様の胸ぐらを掴むとはええ度胸や。令和ちゃうかったら,もうとっくにあの世行きやで」



 大貴の手元に目をやる。その手には「モテる男はやっている,7つの振る舞い」と書かれた自己啓発書があった。



「モテる男がどんな振る舞いをしているかは知らねえけどな,間違いなくそんな本は読んでねえよ!」



 大貴は熱湯をかけられたタコのように顔を真っ赤にして,本を背中に隠した。目を凝らしてよく見れば,蒸気もあがっているかもしれない。



「勘違いされたら困んねんけどな! おれかてまさかこんな本から何も学ぼうとはしてへん! ただ,木に腰かけて,たそがれながら本を読んでる自分に酔うてただげや!」

「それはそれで気持ち悪いな。夏にマフラーをかけている男を目の前にしているみたいだ」

「は? マフラーちゃうわ! スツールや! 清介,お前ほんま分かってへんな! 迷彩柄のショートパンツにボーダーのTシャツを着ている方が恥ずかしいわ! すれ違う京都府民の目をチカチカさせて何がおもろいねん! 今すぐ本屋に行って,ファッション雑誌見てみい! 表紙は外国人が飾ってあるやつにしときや! 間違っても中学生が見るようなやつを参考にしたらあかんで! まあそれを入口にするのも清介にはええかもな!」

「大貴,お前は発言の最後に符号を付けなければ気が済まないのか」



 まあいい。確かにおれの私服はダサい。本屋に行っておしゃれの基礎を学ぶことはこれからの人生に有効に生きることもあるだろう。


 そう考えて,踵を返し,河原町通りにある本屋を目指そうとしたが,大貴に後ろから呼び止められた。ヒルのようにしつこい男だ。



「清介,お前はおれの胸ぐらを掴みに来てんか?」



 おれは静かに,思い出した怒りをふつふつと湧きあがらせながら回れ右をした。

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