立派な生き様


 この奇妙な魚はいつまでも水槽に頭を叩きつけている。


 時折休むようにぐるぐる水槽を回ったかと思うと,また頭をぶつける。この魚は止めるまで自傷行為を続けるつもりだろうか。


 最初は言葉を話す魚に怯えていたが,落ち着いて考えればこの生き物は水槽から出てこれないのだ。悲しいかな,狭い空間で生きることしか許されなくなったオオサンショウウオのごとく,ただ外の世界を見つめることしか出来ないのだ。そうして悟りを拓き,絶望という暗闇に照らされて人生に諦観したとき,心穏やかに静まるに違いない。

 


 かつて栄華を極めた古代エジプトを収めたファラオもこんな気持ちだっただろうか。おれは彼のように仁王立ちをしてただ服従するしかない目の前のちんけな命を見下ろした。もちろん,ファラオがどんな風に仁王立ちをしていたかはおれは知らない。ようは気持ちの問題だ。



「自分,わしのこと舐めとるじゃろうが」


 

 魚は動きを止め,おれのことをジッと睨みつけている。敵意むき出しの血走った眼には美しい死に様をよしとする侍のような覚悟が見て取れた。

 しかし,令和を生きるおれたちにはそんなものは関係ない。桜のように他を圧倒する甘美に極まった姿で散ることよりも,あじさいのようにただつつましく枯れかけてなおこの世に未練がある姿で惰性的に生き続ける姿が性に合っているのだ。魚よ,いや,侍よ。お前はお前の生き方を大切にするがよい。生き恥をさらすな。笑って最後を見届けてやる。



「これがわしの生きざまじゃ!」


 

 水槽に泡をまき散らして叫び,渦潮をほうふつとさせる水の流れを作るまで旋回した。水の流れに完全に乗ったところで「おりゃ!」と全身のばねを使って水槽に体当たりをした。まさに命を懸けた捨て身の行動で水槽は机の上で音を立てて倒れ,机と床をびしょぬれにした。

 

 勢いのまま床に放り投げられた魚は「ぐっ」と低いうめき声を漏らた。しかし,すぐに痛みをこらえてそれ以上は弱みを見せず,カッと目を見開いておれの方を見た。


 

 おれは奮い立つ心を抑えきれないでいた。ここに武士の姿を見た気がした。かつて幕府を打ち破ろうとした武士,迎え撃つ新選組,母国を守るために命を懸けて戦う兵士の姿を見た。信念のもとに動く男はこういうものなのだ。



「何ぼーっと見とる! はよ助けんかい!」


 

 粘土質のマグマのように熱く情熱的になったおれのハートは,真冬のシベリアに放り出されたジーンズのように冷え固まった。




「いや~,ほんま容量悪いのう。もっと,しゃんしゃん動けんのかい。もう少し遅かったらわし,酸素不足で窒息死してたで。生き物を窒息死させるとか,夏祭りの金魚すくいで欲張って小学生みたいやん。小さな袋に魚を入れすぎたら魚たちが水面に浮きあがって口をパクパクさせてるやろ? あれは酸素が足りてない証拠やねん。そんなことも分からずに強欲の塊の少年たちは苦しそうになっている金魚を見てパニックになるねん。自分そんなんして恥ずかしくないんか?」


 

 ああ,それなら経験したことがある。嫌なことを思い出した。あの体験は恐怖以外の何物でもなかった。

 子ども心にはそれがトラウマになり,あれ以来生き物にむやみやたらに親しみを持たないようになったし,生き物に対する遠慮も芽生えて犬を飼いたいということもなくなったし,虫を見つけてどんなに鬱陶しくても命を奪うようなこともしなくなった。

 

 かつての失敗から慈悲深い大人へと成長しつつあるおれは,今さっき水槽に入れたばかりの人面魚を見つめながら強く念じた。



さっさと成仏しやがれ!!

 


 まるで中学二年生のように情緒を不安定にしながら水槽に近づき,両手で抱えた。

 

 とにかく,こんな荷物を送り届けてきやがった大貴に今すぐ突き返してやる! いや,こんな重いものを運ぶなんてありえない。家にたどり着く前に,山賊を打ちのめしてごうごうと流れる川を渡り切ったメロスのごとくぼろぼろになるだろうし,その結果お互いの信実の友情を確かめ合ったり,その友情に感動して「仲間に入れてくれ」と涙をこぼしながら言いに来たりするやつもいないだろう。


 こんな水槽,大貴が取りに来るまで玄関の外で炎天下にさらしておけばいいんだ! 急げよ大貴。お前が身体をぼろぼろにしながら辿り着くのと,水槽が干からびるのとどっちが早いか。遅れてもかまわない。お前が遅れてもお前にはなんの影響もない。ただ,この哀れな魚が,セリヌンティウスでさえ逃れられた磔の刑とは違って,骸骨の姿になるまで火あぶりの刑に処されるだけだ。そしておれはそれを,「友情など戯言だ!」とさも悲しそうな顔で眺めるのだ!



「いや,自分さっきから心の声が惜しみなく漏れとるで。」



 おれたちは数秒間,特に言葉を交わさずに見つめ合った。


「思考が表に出ることほど恥ずかしことはないな。意識高い系のゾーンに入っちゃってる大学生のツイッターもそんな感じで目も当てられないからな。ところでさかなクン,君も男であるならば人の思考が読めてもそ知らぬふりをするのも粋な生き方ではないのか? プライバシーの侵害だよ」

「誰がさかなクンじゃ。そんな名前で呼ぶな」

「じゃあなんて読んだらいいんだ?」


 

 魚は首をかしげた。体の構造上もちろん首を傾けることは出来ないのだが,はて,という顔をして首を横に向ける姿はまさに人がするそれだった。

 そして水中をゆっくりと旋回して,こう言った。



「吾輩は魚である。名前はまだ無い」



 そしてまた旋回し始めた。口元からぷくく,と泡がこぼれ上がってく。



こいつ,笑っているのか?


 

 ぼくはどこか憎めないこの魚をジッと見つめて,そういえば何かに似ているよな,と自分の記憶の中を探り始めた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る