夢と現実の狭間で


「ぼーっとせんと,早よ切れや。こんな狭い箱に詰められてるこっちの身にもなってみい」


 こてこての方言を喋る何かが段ボールの中にいる。おれは,一度刺したカッターナイフを段ボールから抜き取り,静かに刃をしまった。そして,何事もなかったかのようにそっとガムテープをなでた。



 おれはよく,こういう感覚に陥ることがある。夢とは分かっているのに,その世界から抜け出ることが出来ない。


身体は自分の意思に従って動くような気がするのに,確かに自分の意志のままに動いているのにありもしない言動をしたり,非現実的な空間で命の危険にさらされたりする。


そうして目覚めて寝間着と枕カバーが汗だくになった時にやっと夢だと気付くのだ。

 


 パンドラの箱を開ける前に気づいた自分をほめてやりたい。玉手箱を開けた浦島太郎も叶う事ならば箱を閉めてなかったことにしてしまいたかったに違いない。でも,開けてしまったものはしょうがない。自分がしたことは決してなかったことにはできないのだから。



 きっと目覚めたら気分は爽快,明るい日差しを浴びて外でジョギングにでも行きたくなるだろう。もし夢の延長で枕が鼻血に染まっていたとしても,そんなことは構わない。とにかくこの悪夢のような世界から離れることが出来るなら,もう何も望みはしない。



「はよせんかい! いつまで焦らすつもりな! あれか,お前は話の結論を後で話すタイプやろ。わしそういうん一番嫌いなんよ。最後で言いたいことが分かるなら百歩譲って良しとしても,結局何が言いたんかが分からんパターンなんかもある。ほんでそういうやつに限って別に引き込まれる話し方をするわけでもない。お前は絶対そういうタイプ!」



 そういうタイプ! ってなんだよ,機関銃のようにしゃべくりやがって。気持ち悪い言い方で人のことを決めつけないでほしい。


まだ顔も見たこともない間柄だというのに,おれの周りにはどうしていつも身勝手なやつが集まるんだ。


 夢の中といえどもうんざりしてくる。この悪夢を終わらせるには,あの段ボールの中身を開放するしか残された道はないのだろう。清水の舞台から飛び降りるような覚悟でもう一度段ボールに近づいた。



「全く動きがとろいなあ。何事も初動が大事なんよ。五十メートル走のタイムを縮めようとする時,自分絶対に五十メートルダッシュを繰り返すよな? ちゃうねん。そうじゃないねん。大事なのは,体の使い方を意識しながら数メートルを全力でトップスピードに持っていくことやねん。だからお前さんは足が遅いねん。あえて関西弁で言わせてもろうたわ」



 段ボールをガタガタ震わせながら箱の主は声を発した。


 いつの間にかおれは足が遅いことになり,関西弁でこれでもかとなじられていた。あまりにも悪い夢だ。おれは幼稚園の時からかけっこでは一番で,小学校の運動会でも徒競走はいつも一番最後のグループ,代表リレーにはいつも選出されていた! 話が下手だとケチを付けられても,足が遅いとやじを飛ばされる筋合いはない!



 夢から覚める前に,こいつに一発言ってやる。勢いよく箱に近づきつつも,片手で恐る恐る封を開ける。目の前の景色が滲んできた。



「夢ちゃうで。現実や」

「うわあああああ!!」



 隣に人がいたらなら飛んで様子を確認しに来るほどの悲鳴を上げて飛び上がった。頬っぺたをつねったまま様子を確認して尻もちをついたため,変に腰を打った。


 早くおれを開放してくれと往復ビンタをしたが,悪魔はおれにささやき続ける。



「痛いやろ? 夢ちゃうで」



 意識が遠のいていくのが分かる。ああ,良かった。

 

 夢というのは儚いもので,奇妙な体験をしているときは一刻も早く逃げ出したいのだが,いざその段になってくると名残惜しい気もしてくる。でも,夢とはそういうものだ。


一度覚めたら二度と同じ夢は見れないし,戻ることもできない。しかしこれは現実でも一緒だ。


現実に描く夢も叶うことはまれで,儚く散り行く。人の夢と書いて儚いとはよくできた漢字だ。



「起きろや。現実を直視せえ」



 ぼんやりする頭の向こう側でまだあの声が響く。おかしい。明らかに夢から覚めようとしているのに,うまくはいかない。まるでこっちが現実世界みたいじゃないか。



「だから夢ちゃうて。なんべん言わすん」



 ぎょっと飛び跳ねた。夢じゃない? ということはおれはまだ部屋の中にいて,同じ空間に段ボールがある。その中身は,人の顔をもった魚!?


 へっぴり腰で箱に近づき,中をのぞいた。間違いない。小さな水槽の中で,握りこぶしほどのおっさんのような顔をした魚がこちらを険しい顔で睨みつけていた。



「もう観念しいや。わしを箱から出せ」


 言われるがままに水槽を箱から出し,丁寧に机の上に置いた。ガラス製のそれを突き破って噛みついてくるのではないかと気が気でなかったが,そんなことはなかった。



「やれやれよ。ほんまスムーズにことを進めることができんのう。ほんで,なんかわしに言うことないんか?」



 言うこと? わけのわからないことが続いてまだ頭の中が整理できていないのだ。そんな何とでも取れる問いかけをされても困る。でも,黙っているとまたあれこれ突っ込んでくるに違いない。


 ごくりとのどを鳴らして水槽と向き合う。



「それでは,ご出身は?」



 部屋の中を沈黙が支配した。嵐の前の静けさとはこういうことを言うのだろう。今からやってくるものは嵐というにはかわいらしく,ハリケーン,いや,この星を滅ぼす天災のようなものの気がした。


 肩をこわばらせて警戒したものの,魚の反応は拍子抜けするものだった。



「わしにそんなことを尋ねるやつは,お前が初めてや。なんや,自分結構おもしろいやん」  



 水槽の中でこぽこぽ泡を吹き出しながら目を細めている。魚に表情があることを初めて知った。笑うときは息を吐き出し,空気を放出するらしい。


かと思えば,頭を水槽にぶつけ,途端に牙をむき出しにして訴えだした。



「お前のう,ちょっとわしが分かりやすいように関西弁を使ったったらすぐに関西人だと思っとるじゃろうが。あんなやつらのような下賤で卑しい生き方はしとらんわ! 仁義なき戦いでも見て,男の生きざまと方言を勉強して,その腐った性根を叩きなおさんかい!!」



 たまに学校の食堂で「京都人は終わってる」と大きな声で会話をする大阪人を見るが,京都のど真ん中でよくそんなことが言えるとその横柄さに頭が下がる。


それと同じ匂いが目の前の魚からぷんぷん漂ってくる。第一おれは東京出身だ。何事かを叫びながら水槽にがんがんぶつかりながら何かを訴える魚をおれは冷めた目で見降ろした。


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