着払い伝票


「暑いのにご苦労様です」


 夏休みに入ったばかりの暑い時期に朝から荷物を配達してくれる業者に,普段はかけない労いの言葉を贈った。玄関ののぞき穴から見える姿が長髪でフォルムが美人だったからだ。扉を開ける前に入念に鼻血が残っていないか確認した。のぞき穴から見た女性に興奮して出血したなんて思われたら本物の変質者よりも気味悪がられる。健全な男子としての欲求は備えているが,そこまで落ちぶれちゃあいない。


「ありがとうねえ。これからまだ暑くなると思うと,まいっちゃうよ」


 酒焼けした声で答えた業者が帽子を取り,髪をかき上げた。あらわになった顔を見て,肩を落とす。


「ハズレだ」


 聞き取れなかったようで,耳に手を当てて「え?」と片方の眉を吊り上げて訪ねる業者は,絵本で見る年老いたの魔女そのものだ。


「ハズレだ」と繰り返す。

「何のことだい? それより,暑いねえ。ちょっとお茶でも頂いていこうかね」


 厚かましくも部屋に上がろうとする老婆に両手でバツ印を示し,外へ促した。


「急いでるんだ」

「急いでいる? 私は生まれてこの方,本当に忙しい大学生を見たことがないね。あいつらみんな忙しいふりをしている。賢いやつは世の中に何も残りそうにない研究をしてはやれ忙しいとぼやき,頭の悪いやつは世の中に何も残さないよう万全の対策を取って性に奔放であることをやれ忙しいと漏らす。お前たちは楽しいことばかりしてそれを苦だと言うが,日本人の言うのはいつからそんな人間ばかりになっちまったのかね」

「日本を憂う気持ちは分かるよ。でもとにかくおれは忙しいし,残念ながら我々には日本を変える力はない。おれに出来る生産的な活動と言えばマスターベーションぐらいだし,あんたも愚痴をこぼしながら荷物を配達するぐらいのことしか出来ないだろ? ところで,あんたはおれに何か届けに来たんじゃないのか?」


よく言ってくれたとばかりにおばさんはおれの肩を叩き,郵便配達員が運転するような小さなバンに軽い足取りで戻っていった。日本はこれから崖から転がり落ちるように衰退の一途かもしれないが,あのおばさんはしばらく元気だろうな。


「これだよこれ。なかなか大層なもんだね」


 荷車をゴロゴロと押しながら快活に言うが,運ぶのも危なっかしいほどの重さがあるのがわかる。玄関まで運んでもらって送り主を見たが,名前は無記入で中身は貴重でありがたいものとある。誰かがふざけて送りつけてきたのだろうか,と訝しんだが頭には一人の男以外に誰も浮かばない。その一人の男については語る機会は尽きないから今は置いておくとして,ひとまずばあさんに礼を言った。


「いい退屈しのぎになったよ。身体に気をつけて」


 挨拶もほどほどにしこの仰々しい荷物の中身を確認したいと思ったのだが,老いた魔女はそれに似つかわしい表情を浮かべてその場から動かない。


「これはプライベートな問題だから,中でゆっくり見させてもらうよ」


 そう言って手を振ると,手を振り返す代わりに掌を差し出してきた。きっと,この老婆は日本語を一生懸命勉強して来日したのだがコミュニケーションの取り方を知らないのだ。手を振られたら振り返すことは,納豆パックを開けたら箸でかき混ぜる動作と同じくらい自然と行われることなのだから。


「早くしな。着払いだよ」


 かさついた掌を揺すり,「忙しんだよこっちは」とばばあはおれを急かした。





「まったく,何がしたいんだあいつは」


 こんな意味不明なことをするのは田淵大貴の他には考えられない。理不尽と横暴と傲慢を足して2を掛けたような男だ。勝手なものを頼んで人んちに着払いで送り付けるなんて,あいつはにとっては自分のごみをゴミ箱に捨てることぐらい簡単にやってのける。いや,あいつはこの前自分の手に持っていたゴミ箱を違法駐輪してある自転車のかごに放り込んでいた。ゴミ箱にゴミを捨てるよりも着払いで他人の家に荷物を届けさせることを簡単にやってのけるほど非常識で無神経なやつだ。「神の天罰だ」という大貴は正義をかざして暴力をふるう悪の権化といって差し支えない。


「金は絶対返してもらうからな」


 中身も分からない箱を開けるために,カッターナイフを取りに歩いた。第一,送り主も送り主だ。注文者の頭のタガが外れていることはあっても,商品の中身と送り主の名前ぐらいは記入するのが常識ではないか。いったいどんな店に何を頼んだというのだ。人んちに送りつけるぐらいだから取られても問題ないものだろう。いや,あえて自分ちではないところというのは,お金をくすねるためではなくて他の人には見られたくない何かという可能性もあるのでは?

 呆れ果てて重くるしい気分の中にわずかながら好奇心が混ざり合っている。半ば興奮しながらカッターナイフを手に取り,歯を出す。荒々しくガムテープが張られた場所に刃を入れた。


「気ぃつけよ。一人ごとばっかりいって注意散漫だと,ケガするで」


 そんなわけないだろうと周りを見渡す。間違いない。部屋の中にはおれ以外はだれもいない。耳の穴をほじってみても,耳くそが詰まって聞こえ方が悪くなっているようではないし,だいいちおれの耳くそはカリカリのかりんとうタイプではなく,生まれてこのかた二十一年ネトネトの放置された液体のりタイプでやってきたのだ。

 間違いなく,声の主はこの段ボールの中にいる。

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