人面魚と大学生活
文戸玲
ついてない男,豊田清介
運に見放され,行く当てもなく途方に暮れているところを不運に温かく迎えられたおれは,学生マンションの賃貸契約をした窓口にいる。
担当のスタッフには気味の悪い視線を浴びせられ,後ろで仕事をしている無関係な人まで好奇の目でこちらを見ているのが分かる。
笑うならば笑ってくれ。そんな祈りもむなしく,我関せずと言った様子で全神経を聴力に集中させて,全員がおれの動きを気にしている。ペンを走らせる音で文字の内容を読み取ろうとでもしているかのように。
契約人の氏名欄には豊田清介,職業欄には学生と記入した。そこでペンを一度置き,一呼吸置く。担当スタッフはスーツの裾を気にしながら,はあ,と小さくため息をつく。「何をしている。早くその続きを書け。そのために来たんだろ?」と無言で怒鳴り,先を促す。
おれは観念して頷き,再びペンを持った。
同居人氏名 シーマン
職業 魚
鬱陶しそうにおれの手元に目を落としていた担当のスタッフが噴き出した。部屋にいる他のスタッフもキーボードをたたく手を止めてこっちを見る。
「変更点は以上ですか? 他に何か変わったことがありましたらお伺いしますけど」
こめかみの少し上あたりを撫でながらスタッフは尋ねた。指の動きに合わせて目がおかしな形になるが,お構いなしに皮膚をこねくり回す。そうでもしないと口元が緩んで顔の表情が変わってしまうのだろう。要するに,目の前の顧客が滑稽でおかしくてたまらないのだ。
「以上です。急いでいるので,帰って良いですか?」
「ええ。また何かあればいつでもいらしてください」
スタッフの声を最後まで聞かず逃げるようにして扉に手をかける。自分の席に座っていた営業マンたちがさっき自分のいた席に集まり始めているのが背中ごしに分かる。
そりゃそうだ。契約に変更がある,と連絡をした学生が「ペットを記入させてくれ」と申し出て,届け出の紙に真面目な顔をして魚と一緒に住むことを申請しに来たのだから。
同居人氏名 シーマン
職業 魚
誰だっておかしな客がいると思うはずだ。早歩きで店を離れる。店内からは営業中とは思えないほど大きな笑い声が漏れ出てきた。
「どうしておれがこんな辱めを・・・・・・」
一日の終わりを告げる西日に涙を真っ赤に染めながら呟いた。
できることなら今日の午前中に戻りたい。戻ってやり直したい。これからおれの生活はどうなるんだろう。大きな不安と少しの期待なら頑張れる。でも,おれが抱えているのは果ての見えない絶望と前触れもなくやってくる災害のような恐怖だ。
たった半日で自分の生活がここまで大きく変わるなんて誰だって思わないだろう。おれだってその例には漏れない。
ーーー
石ころを蹴っ飛ばすだけで楽しかった頃を思い出した。
およそ十年前になろうか。学校からの帰り道,当時はやっていたポケモンになぞらえて名前を付けた石を蹴りながら帰った。道路脇に落ちている何の変哲もない石だ。
一人三つの石を所持する。手持ちの一つを転がしながら帰り,途中で溝や川に落ちたら新しい手持ちの石をまた蹴りながら帰る。そうして最後まで手持ちの石を失わずに進み続けた人が勝者となる。あの頃は,こんな遊びが腹を抱えて笑えるほど楽しかった。
「なんでおれが・・・・・・」
世の中に不満を抱えているおれだが,今日の午前中は特にいらだっていた。
商品棚の陳列を少し間違えただけで「帰れ!」と罵られ,「ありがとう! 帰ります!」と店長に反抗的な態度を取った後だった。
目の前に落ちている石を思いっきり蹴り上げる。いらだちを乗せた石ころは思いに比例するようにぐんぐん飛距離を伸ばして転がっていく。
「あ」と声をあげたと同時に,石ころは歩道で暇を持て余して煙草をふかしているいかにもやんちゃそうな青年の靴にあたって止まった。
頭を掻きながら手刀を切ってぺこりと頭を下げる。ついでに茶目っ気たっぷりに舌まで出して謝罪の意を示したが,悲しいかな,こちらの思いは伝わらなかったようだ。
「なめてんのかこら!!」
「舐めてません!」と威勢よく返事を返して猛ダッシュで路地を走った。「これは逃げているのではない。戦略的逃走だ! いや,闘争だ!」などと自分を鼓舞しながら下宿先へ向かって風よりも早く町を駆け抜けた。
この日,京都市北区の風速が予報より強かったのは,おれが不運と追いかけっこをしていたからだと説明しても決して過言ではないだろう。
部屋に入るなりかばんを放り投げた。
レーシングカーのごとく音を発する速度でアパート駆けたのだ。部屋についたころには半そでのシャツは迷彩柄のようにところどころ汗を吸ってにじみ,学生向けの建物は太陽の熱を十分に吸収してため込んでいる。
汗はダラダラ,喉はカラカラ,このろくでもない人生を嘆く前にまずはゴクゴクとのど越しのある飲み物で身体を満たさなければ。
小走りで冷蔵庫に向かう途中,去年の冬から出しっぱなしにしていたこたつに小指をぶつけた。声にならない激痛が走り,うめき声を出しながら足元を見ると,爪が割れていた。さらに,その足の上に,ぽたりと血が落ちた。
顔をぬぐうと,腕は真っ赤に染まった。盛大に鼻血が噴き出ていたのだ。
「ちきしょう! おれの身体はピタゴラスイッチか!!」
誰もいない部屋で怒鳴り声をあげると,返事を返すようにチャイムの音が鳴り響いた。
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