第2話 息子の死
薄暗い診療室の中。
円形の小さな椅子に座る、一人の女性の姿があった。
歳は50手前。年齢の割に顔立ちはまだ若いように見えるが、彼女の沈んだ表情と雰囲気が、その容姿を少しばかり老いさせている。
「…………」
終始無言。取り乱すこともなければ、溜め息を吐くこともない。
ただ一人、拳を握り締めながら待ち続ける。
彼女が病院からの電話を受けてこの場に来たのは、およそ3時間ほど前。
――貴女の息子さんが交通事故に巻き込まれて重態です。
そう聞いた時には卒倒しそうになり、慌てて駆け付けた次第だ。
今は、医師が戻って来るのを待つしかなく、それがとても歯痒い。
「………ッ」
気を緩めれば、今にも泣き出してしまいそうだった。
息子は大学受験に失敗し、とても気の毒な状態だった。
確かにアニメばかり見たり、そうした趣味はどうかとは思う。けれど、それでも自分の息子なのである。
海賊王になってやるってばよ!……中学生の時にその台詞を聞いた時から、少々怪しかったのは否めないが。
そんな過去の出来事を頭の中で反芻していると、部屋の扉がゆっくりと開かれた。
「―――ッ!」
俯いていた顔を上げる。そこにいたのは、かなり若い医師だった。
20代半ば程で、髪は適度に短く、好青年といった顔立ち。
年配の先生が来ると考えていた彼女は少し意外に思い、その考えを振り払って尋ねる。
「先生……息子は。息子は助かりますか……?」
医師はしばらく黙った後、手にしていたファイルから幾つかのカルテとレントゲン写真を取り出した。
「まずは、これを見てください」
ボードに貼られたレントゲン写真の裏から、光が投影される。
「―――ッ!」
それを目にした女性の息が、詰まった。
肋骨の何本かが歪に折れ曲がっていたり、腕の骨が真ん中からポッキリと折れていたり。
本来骨がある場所に何も無ければ、その逆な場所もまた存在している。
だが、特筆して酷いのは下腹部であった。
もはや原形を留めていない。まるで別な生き物の骨の様である。粉々になっている箇所も珍しくはない。
どこがどのような怪我を負っているのかなど、もう説明する必要すら無かった。とにかく全てが酷いのだ。
「不洞さん、落ち着いて聞いてください」
次に医師の口から出る言葉など容易に想像がつく。
というよりも彼女自身、既に理解していた。
でも、もしかしたら……そんな淡く儚い願いを抱いて、耳を傾ける。
だが、現実は残酷だった。
「我々としても最善を尽くしましたが、もはや手の施し様がありません。治療や移植といったレベルではどうにもならないのです」
瞬間、母親の目から涙が溢れ出した。
こうした光景を見慣れているのか、それとも共感しながら感情を押し殺しているのか。医師は毅然とした態度で、言葉を紡ぐ。
「今は延命措置で騙している状態です。が、息子さんの体力的にも危険なことに変わりはありません。長くて……今晩まででしょう」
「先生!お願いします!あの子を……新斗を助けてください!!」
とうとう堪え切れなくなった女性が、縋り付くように声を荒らげる。
本当は無理だと判っている。頭では理解している。けれども、そう懇願せずにはいられなかった。
「何でもします!お金ならいくらでも払います!」
「………」
医師は無言で、その様子を見つめていた。それが彼なりの返事であり、また肯定の意でもある。
彼女の息子は、助からない。
それを口で告げることが憚られたのかもしれない。
女性は顔を両手で覆い、俯きながら泣き続けた。
そのまま苦痛の数分間が経ち、女性の涙も枯れ始めた頃。
重苦しい空気に満ちた診療室の扉を開いて、一人の看護婦が医師のもとに歩み寄ってきた。
「黒若先生、ご報告が……」
「見ての通り今は取り込み中でね。少しの間、外で待っていてくれないかな」
医師がやんわりと退出を促したが、看護婦は首を横に振る。
怪訝な表情を浮かべる医師の耳もとで、看護婦は小さな声で何かを伝えた。
「……なに?それは本当かい?」
驚いた彼の声に、看護婦は頷いて返す。
「なるほど、了解したよ。ご苦労様だったね」
そう労う医師の表情には、この空気の中に似合わぬ微笑があった。
いえ、と看護婦は軽く会釈し、静かに部屋から退出していく。
優しく扉が閉まるのを聞き届け、医師は俯いたままの女性に、
「顔を上げてください、不洞さん。息子さんが助かる可能性が出てきましたよ」
小さく笑って、そう呼び掛けた。
「……え?」
初めは、耳を疑った。
夢でも見ているのだろうか。あるいは幻聴かもしれない。
散々泣き腫らした彼女の思考は、願いとは裏腹なマイナスのイメージしか搾り出させなかった。
でも……違う。突き付けられていた残酷な現実は、さらに極上の事実によって塗り替えられたのだ。
「今、なんて……」
「貴女の息子さんは助かる、と言ったんですよ」
ニッコリと微笑んだ医師であったが、そこで「ですが……」と言葉を濁し、
「その為には少々……いや、かなり特別な方法をとることになります。まずは不洞さん、貴女にその事を理解していただきたい」
きょとんとしたままの女性に、医師は構うこと無く説明を続ける。
「もちろん失敗する可能性は極めて低いですし、後遺症等は微塵も残りません。が、やはり多くの問題を抱えることになります」
「た、助かるのならお金はいくらでも……」
「お金の心配はご無用です。いやそれだけでなく、今から私の話す事に同意していただければ全ての問題が丸く収まります。そして同時に、そこが一番の問題でもあるんです」
医師の難しい言い回しは、錯乱気味の彼女には上手く伝わらない。
一番の問題は「同意する」ということにある、と、医師はそう言ったのだろうか。
「我々の施す処置と、それに対する条件。全てをしっかりと理解した上で、貴女が結論を下してください」
それからの数分間は、驚きの連続であった。
医師が物事を一つ説明する度に、女性の価値観が根底からひっくり返される。
常識が非常識に変わり、非常識が常識に取って変わる。そんな感覚でオーバーヒートしかけた脳をフル回転させ、必死に医師の言葉を受け入れていく。
「――ということです。我々なら息子さんを救うことはできますが、彼はこれから逸脱した人生を歩むことになるでしょう。貴女は『助かった息子さん』を受け入れてあげることができますか?」
そして最後に、医師の重い一言が投げかけられた。
「………」
女性は、押し黙る。
医師が説明した事はぶっ飛び過ぎていて、十分の一も理解できていないが、ひとつ明確になったことがある。
息子が、息子でなくなる。
命が助かるなら、それに越したことはない。だが……果たして、息子は「耐えられる」だろうか。
受け入れてあげる自身はある。
血の繋がった息子だ。それくらいはどんな事よりも当たり前。
「……分かりました。その方法でお願いします」
女性は小さく、しかし力強くそう呟いた。
たとえどんなに辛い道が待ち受けていようと、命あっての人生。事故なんかで死なせたくはない。
「その願い、確かに受け取りました。我々の全力を以って、息子さんは必ず助けてみせます」
こちらはさらに覇気の込められた口調で、そう宣言してみせた。
「お願いします、先生」
女性はきゅっと瞼を閉じ、頭を深く下げる。
「はい、我々に任せてください」
そして、そんな彼女を見つめる医師の表情は、
計画通り……とでも言いたげな、ニヤリと笑う不気味なものであった。
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