第5章 帰郷
第34話 カメリア村
洞窟を出ると、2人は道から外れた場所を隠れるようにして馬で進んでいった。山を登れば徐々に雪が増え視界が曇っていく。辺り一面が白くなった頃には呼吸すら難しくなるような向かい風を浴び、リゼットはフードを必死に抑えたものである。
山を越えた頃には風と雪が落ち着いていた。山よりは雪は積もっておらず、馬で走行するのに不便するような深さではなかった。それでも、きらめく雪景色は光を反射しており、どこまで行ってもまぶしい。枯れた木に積もっていた雪が滑り落ちる横を、2人を乗せた馬は走った。
カメリア村に着いたのは、洞窟を出発してから10日後の事だった。
この日数を進み続けられたのはレオナールの祖母のおかげであった。もちろん食料自体もありがたかったが、鞄の奥にこっそりと貨幣が忍ばされていたのだ。
食料が尽きても道中の村に立ち寄り補給できたのは大きかった。また、手袋やマフラーなどを購入できていなければ、2人は凍えて山を越えることなどできなかっただろう。馬の装備も雪道仕様で整えられなければ徒歩で村まで向かうことになったはずだ。
「ようやく着きましたね!」
夕日を受けてオレンジ色に見える雪を分断するような川を見つけてリゼットは言った。それはカメリア村の境界を流れる川である。
橋も雪で覆われており、まるで最初から雪でできていたかのようだった。その橋の前には腰ほどの高さの柵があり、聖サンビタリア保安隊の名と立ち入り禁止という言葉が刻まれた立て札が立てられている。
レオナールは馬を下りると柵をよけ、手綱を引いて馬を橋の上へと誘導した。そして再び柵を戻した。
「足跡が残っているのに、戻しても仕方がなくないですか?」
「一応だ。雪がさらに降れば足跡も消えるからな」
そう言ってレオナールは馬にまたがった。
橋を越えれば、雪の合間にリゼットの見知った家が見えてくる。それは、懐かしいのに、どことなく違和感がある景色で、リゼットは心臓がぎゅっと締まる感覚があった。
「リゼット。道案内をしてもらってもいいだろうか。行き場所は休める場所が良い」
「それなら、私の家へ行きましょう」
そう言って、リゼットは遠くを指し示した。それに合わせてレオナールは馬を歩かせる。
リゼットの記憶にある道を進んでいくのだが、誰も除雪をする人がいなくなった道は道ではなかった。この村の住人以外には道だと思えないだろう。
このことに、リゼットは村に誰もいないという事実を実感していく。元々普段の冬からして全部の道がしっかり除雪されていたわけではない。だが、どの建物の周囲も一切雪が避けられておらず、扉に雪がへばり付いたまま開けられた形跡がない。それは、誰も住んでいないという事実の証明に他ならなかった。
案内しながらも元気を失っていくリゼットをレオナールはじっと見る。どう声をかけたらいいのかわからないのか、最初から話す気がないのかはわからないが、おそらくは前者だろう。
馬が雪を踏みしめる音だけが妙に響く景色は、寂しげなものだった。
しばらくしてたどり着いたリゼットの家も、やはり雪で埋まっていた。
「扉、開くでしょうか」
「スコップはないのか?」
そう言ってレオナールは馬を降り、近場の木に馬をくくり付けた。
「そこの物置に入ってるはずです」
指差した木製の小さな物置も当然雪に埋もれている。
「スコップを使うのは諦めるか……」
レオナールは、足首よりは深い雪をザクザクと踏んで家の前まで歩いた。足で蹴るようにして雪をかき分けていくと扉の前だけ地面がちらほら見える空間が生まれていき、避けられた雪は土が混ざり汚くなった。
そして、レオナールは扉に手をかけた。ミシミシと音を立ててゆっくりと開かれていく。途中雪に引っかかったが、レオナールは思いっきり引っ張りむりやり開けた。
「入れそうで良かったです」
そう言って馬から飛び降りたリゼットをレオナールは手のひらをかざして止めた。
「中を少し確認してくる。待っていなさい」
「なぜですか?」
「念のためだ」
首をかしげるリゼットにレオナールは一言だけ答えて中に入っていった。
リゼットは、よくわからなかったもののおとなしくレオナールが戻るのを待った。
さほど時間を置かずにレオナールは外に出てきた。
「問題なかった」
そう言って馬に近寄ると下ろした荷物を抱えて家の中へと入っていく。リゼットはそれに付いていった。
中は何も変わっていなかった。7人で囲むには窮屈だったテーブル。前に立ってぬくぬくしていれば暖かさを独り占めするなと怒られる薪ストーブ。おばあちゃんが編み物をしながら座っていた専用の椅子。
すべてリゼットの記憶のままだった。
「やっぱり、落ち着きますね」
辺りを見渡しながら、リゼットは椅子に座った。
「落ち着くなら良かった。しばらくはこの家で寝泊まりしたい」
「はい! もちろん良いですよ!」
嬉しそうに笑うリゼットを見ながら、レオナールは荷物を机の上に置いた。
「今日は休憩して、墓参りや遺跡の確認は明日にしようと思う」
「あ、お墓あるんですか?」
「魔人に殺された者たちも多かったからな」
暗に魔人に殺された者以外の墓はないと言われ、リゼットは目を伏せた。少なくとも父親のお墓はないのだ。
「一箇所にまとめて埋葬した。遺体がない者も多いが、全員そこで眠っていると考えていいのではないか?」
慰めるような言葉に、リゼットは顔を上げた。
「そう、ですね。明日皆に祈りましょう」
「ああ」
家の中は静寂に包まれた。
お互いに何を言えばいいかわからなくなったのだろう。椅子に座り静かな時間が過ぎていく。
窓が揺れる音がしてレオナールは口を開いた。
「薪はどこにあるだろうか」
「家の裏に薪置き場があります。斧も一緒にあるはずです」
「そうか。持ってこよう。リゼットはゆっくりしていなさい」
そう言ってレオナールは扉を開けると立ち止まり、後ろを振り返ってリゼットを見た。
「ついでに馬もどこかの小屋に入れてこよう。適当な小屋を借りても良いか?」
「はい。大丈夫です」
リゼットの答えを聞いてうなずくと、レオナールは今度こそ外に出ていった。まずはスコップを取り出そうとしているのか家の前の方からザクザクとした音が聞こえてくる。
リゼットはその音を聞きながら家の中を見る。何か手伝うと言うべきだと思ったが、そのような気持ちにはなれなかった。自分の中にある感情がどのような名前のものかわからないまま、ぼうっとどこでもない場所を見続けた。
しばらくして、止まっている時計がリゼットの目に映った。
家の時計が止まっているのを見たのは、はじめてだった。生まれたときにはすでにあった時計で、主に母親が巻いているのを何度も見た記憶がある。
何もすることのなかったリゼットは、おもむろに時計へ近づいた。手を伸ばしてみるが、リゼットの背丈では届かない。すぐに諦めると時計の前まで椅子を運び、登って時計の蓋を開ける。そこには止まった振り子とネジがあった。
リゼットは、置かれていたネジを穴に差し込み回しはじめる。
リゼットが思い出すのは家族のことだ。幼いとき、私も巻きたいと言ったことがあった。母親は高いところで危ないからと言うのだけれども、そのときどうしても巻きたかった幼いリゼットは泣いた。泣いて泣いて、そして家に帰ってきた父親が肩車をしてくれた。それが、リゼットのはじめて巻いたネジだった。
ネジを回し終わると、時計は時を刻みはじめる。的外れの時間だが、正しい時間もわからない。リゼットは時計の針を調整しないまま蓋を閉じた。
静かだった部屋に、振り子の音が響き渡る。
目をつむり音を聞くと、家族がそばにいるような気がした。家の外から響く雪をかき分ける音も家族の誰かが鳴らしているような錯覚に陥る。
雪の音が消え少しすると、再び雪を踏みしめる音が聞こえてくる。そして家の扉が開いた。
オレンジ色の光は長い影を作る。影をたどれば、そこにはレオナールが薪を抱えて立っていた。
「今夜は暖かくして眠れるな」
そう言ってレオナールはかがみながら薪をストーブに入れていく。ある程度入れ終えると、すでに見つけていたらしいマッチで火を付けた。
「レオナール」
「どうした」
レオナールは立ち上がるとリゼットを見た。
「家の中は思い出が多すぎます」
「いろいろ、思い出してしまうか」
「はい……私、ずっと実感がなかったんです」
リゼットは、窓の外から差し込む夕日をまぶしそうに見ながら言葉を紡いでいく。
レオナールはリゼットから視線を外さないようにしながら椅子を引き、座った。
「あまりにもあの日のことは非現実的で、すべて川へ落ちたときに見た夢だったんじゃないかって思ってしまうんです。川に落ちて、それで私が村の外を出てしまっただけで村では私がいないだけの変わらない日常があって。そこで家族も友人もみんな暮らしているような、そんな気持ちでいたんです」
リゼットの表情は夕日が強く当たり、よく見えない。レオナールはそんなリゼットの表情を少しでもよく見ようとするように、じっと見つめている。
「でも、やっぱり夢でもなんでもなかったんですね。家に帰ってきても、誰もおかえりなさいを言ってくれない。時計のネジを巻く人はいないし、編みかけのセーターが完成することもないんです」
そう言ってリゼットが見た先にはミシンが置かれた台があった。ミシンの横が空いており、そこに編みかけのセーターがあった。
「どうして私だけだったのでしょうか。私以外にも変異しなかった人がいてもおかしくなかったと思うんです……」
「……私がこの村に着いたときには手遅れだった。変異しなかった者もいたはずだが、多くの者が魔人に殺されていた。そして、残った者は君も知っての通り魔人裁判にかけられた。君が生き延びたのは、本当に運が良かったとしか言いようがない」
パチッと火が跳ねる音がした。
ふっと窓から差し込んでいたオレンジ色の光が消え、部屋は急に薄暗くなった。
「レオナール。レオナールは、死なないでください」
「……」
すぐには答えが返ってこなく、リゼットは言葉を続けた。
「私を1人にしないでください」
薄暗い空間に目が慣れるほどの時間がたった頃。リゼットの目からは涙がこぼれ落ちていた。
レオナールはその滴を見て、何度かまばたきを繰り返してから返事をした。
「わかった。何度でも誓おう。君を1人にはしない。君より1日でも長く生きよう」
「約束、ですよ」
「ああ。約束だ」
静かにリゼットの頬を流れていく涙をレオナールは見ていた。
完全に日が暮れて、暖炉の光だけが部屋を照らすようになるまでずっと。
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