第6話 聖水
向かった先は地下への階段だった。通ってきた道を戻って右手に扉があったようで、今は開放されている。
長髪の男に続いてリゼットが中に入れば土臭い香りが漂ってくる。電灯はなく、一定間隔で壁に備え付けられているロウソクの火だけが辺りを照らしていた。
扉が閉まると一層薄暗くなり、揺らめく光と陰が今にも襲って来そうだ。恐怖心に、リゼットの歩みは自然と遅くなっていった。当然、男との距離がじわじわと空いていく。そのことに焦りが生じ、リゼットは足を早くすることを意識した。
「ひゃっ!」
足が滑った。
崩れ落ちる寸前で、後ろにいたダミアンがリゼットの腕をつかむ。
「気を付けて」
「は、はい……ありがとうございます」
リゼットのお礼に、今まで真面目な表情しかしていなかったダミアンは柔らかく笑った。その優しげな表情にリゼットは泣きたくなった。今から向かう先は死に場所であり、そのような笑顔を素直に受けとる気持ちにはなれなかったのだ。
ダミアンから視線をそらし、体勢を立て直すと再び階段を下っていく。リゼットは相変わらず震えていたものの、今度は体勢を崩すことなく地下までたどり着いた。
一足先に下り切っていた長髪の男の後ろには大きな扉がある。2枚の扉それぞれに刻まれているのは、扉を守るように剣を構える人物だ。そんな扉の左右に2人の男が立っていた。裾の長いクリーム色の神官服を着ている。
「彼女がカメリア村クレールの子リゼットだ。入廷の許可を」
長髪の男の言葉で、神官服の男たちは扉を押した。ギギッと重たくきしむ音が振動と共に伝わってくる。
振動を感じるたびにつのる不安に、リゼットはぎゅっと服の裾をつかんだ。
扉はゆっくりと時間をかけて開かれていく。
しだいに見えてくるのは、大聖堂の地下にある設備とは思えない物騒なものである。学校で教わった知識のおかげで、大聖堂だからこその設備だとは知ってはいても実物はとても不気味なものだ。リゼットは、あれに自分が入るのだと察して体を震わせた。
扉の向こうにあるのは、一階のホールと似たような造りでたくさん並べられた長椅子。そして、それらに囲われている判決を受ける者が入る鉄格子であった。
その鉄格子の中へリゼットは案内されるままに入れられる。ダミアンも共に入ったところで鉄格子の錠が外にいる者によって閉められた。
1人で入るわけではないのだけが救いだと思いながらリゼットが軽く息を吐くと、その音は静まりかえった地下に大きく響いた。
鉄格子の中には台がある以外何もない。台の奥の鉄格子には小窓が設けられており、ここから外と物を受け渡しできるようになっているようだった。
鉄格子の周囲にある長椅子には、空席が目立つもののそれなりの人数が座っている。大半が神官服を着ているが、スーツを着ている者や聖サンビタリア保安隊の隊服を着ている集まりがある。長髪の男はその集まりには入らず、鉄格子の出入り口近くの椅子に座っていた。
「これより、魔人裁判を執り行う」
リゼットと向かい合うようにして鉄格子の前に立つ男の宣言に、リゼットの鼓動は痛みを感じる程までに早くなった。呼吸も浅く早くなり、視界も狭まっていく。
そんなリゼットを気遣う人間は誰もいない。
「名と年齢を述べなさい」
男は淡々とリゼットに命じる。
この男は、地下にいる人物でもっとも繊細な
「カメリア村クレールの子リゼット、13歳です」
リゼットの声が震えてしまうのは仕方がないだろう。誰もその事を気に留めることはせず、裁判は滞りなく進められていく。
司祭の前の台に聖水が注がれている杯が置かれ、男は一度、杯を皆に見えるように掲げてから口にした。それを台に戻すと、リゼットの正面にあった鉄格子の小窓が待機していた男によって開けられた。男は、その小窓を通して杯を鉄格子の向こう側に移動させた。
再び小窓が閉められると、司祭が口を開く。
「聖水を口にし、神の判定を受けよ」
この言葉に合わせてダミアンが剣を抜き、リゼットに剣を振り下ろせるような位置に体を調整すると構えた。
ダミアンが共に入ったのは、リゼットが魔人となった場合に処刑するためであったようだ。リゼットは、鉄格子の中に1人ではないことを救いだと感じたのは間違いだったのだと悟った。
リゼットは杯を見つめる。心臓がうるさいほど鳴り、それを押さえるように唾を飲み込んだ。鼓動より早く震える手で杯を握ると、水が小刻みに揺れているのがわかる。
緊張。恐怖。不安。
それらを抱えたまま、リゼットは目をつむり杯に口を当てる。
今リゼットが思い浮かべるのは、故郷の家族の姿だ。
死にたくないと心の中で叫びながら、杯を傾けていった。
ゆっくりと聖水がリゼットの喉を潤していく。聖水は無味無臭の液体であった。なんの刺激もなく、リゼットには水と違いがあるようには思えなかった。
杯は空になったがリゼットの身には何も起きない。
今まで魔人裁判を受けた者は、全員処刑されたという。つまり、この聖水を飲んだ瞬間に魔人へと変異したはずだ。何も変化がなく味も何も感じなかったリゼットには、それが不思議でたまらない。他の皆は聖水を飲んで変異したが、自分だけただの水を渡されたために変異しなかったのではと考えてしまったのも、おかしい話ではないだろう。
杯を台に戻した頃には手の震えは止まり、恐怖よりも困惑と言った方が適切な感情に変わっていた。
リゼットが杯から手を離すのに合わせて、ダミアンが剣を
リゼットは目だけで辺りの様子をうかがうが、皆真面目な表情をしており何を考えているのかまったくわからない。
「カメリア村クレールの子リゼットよ。そなたは神によって無実が証明された。神に誓いを
なぜ無罪となったのか理解できず、リゼットは目を揺らす。「はい」と答えたはずの言葉はかすれて声にはならなかった。それを言い直すことはせず、そのままひざまずき、左手で右手を包む。そして、その手を額に当てると目をつむった。
「神の
祈年祭、入学式、結婚式、さまざまな場面で繰り返し誓ってきた言葉をリゼットは紡いだ。
「顔を上げよ」
その声に従い、リゼットは顔を上げると立ち上がった。
司祭と目が合う。
視線はそらされることなく、そのまま司祭は宣言する。
「以上で、カメリア村クレールの子リゼットの魔人裁判を閉廷とする」
この言葉で鉄格子の錠が外され、扉が開いた。
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