第3話 新しい日常の契約

 翌日、リゼットは使用人として登録するために役所へ向かうこととなった。

 家の外には車が止められており、前方の座席には帽子をかぶった男が座っている。ノーランはその車の後部座席に乗り込んだ。

 その様子をリゼットは目を丸くして見ている。生まれてはじめて馬のない車を見たのだ。都会に行けば馬がなくとも動く車があるというのを聞いたことがあっただけである。しかも、リゼットは冗談だろうと思っていたのだ。

 辺りを見渡しても馬はいない。どのように動くのかリゼットにはまったく想像が付かなかった。


「リゼット。早く乗りなさい」

「は、はい」

 シャネルに言われて、リゼットは恐る恐る車に近づいた。

 車は4輪で屋根がない。基本色は黒で赤いラインが入っている。

 乗り込むには高さがあり、車の横に台が置かれていた。それでもリゼットにとっては高さがあり、ノーランに引っ張り上げてもらってようやく乗ることができた。

 座席は皮でできており、しっかりとした座り心地だった。


「それでは発車致します」

 前方の座席に座っていた男がそう言うと、車は走り出した。

 本当に馬がいなくとも走り出し、リゼットは驚くことしかできない。

 戸惑っている間に、車はノーランの自宅の敷地を出た。

 

 さらに住宅街も抜ければ、リゼットが人生で一度も見たかったことのなかった車が何台も当たり前のように走っている。

「わあ!」

 思わずリゼットは声を上げた。

 道路も土ではなく平らな石が敷き詰められており、建物は縦に長く所狭しと並んでいる。人の数も村とは比較にもならないほどあふれ返っていた。


 そんな風に周囲を見てはしゃぐリゼットに、ノーランは微笑ほほえましそうに笑った。それに気が付いたリゼットは、少し顔を赤くしておとなしく座席に座り直す。

「すみません……あの、街に来たのは、はじめてで……」

「いいんだよ。喜んでくれると年相応に見えて安心するからね」

 そう言われて、リゼットはこの家に来てから一度も笑っていなかったことに気が付いた。街の様子はそれだけ衝撃的で、一瞬とはいえ、これまでのことを忘れてしまうほどのものだったのだ。


「はい……すみません……」

 何と返せばいいのかわらからず、困ったような笑みを向けるリゼットの頭を、ノーランはそっとなでた。

「無理はしなくていいからね」


 そう会話している間に2人が乗った車は役所に到着した。

 車を降りると、2階建ての石レンガでできた建物があった。扉は大きく、出入り口前のアーチは、例えリゼットが肩車をしてもらったとしても天井に届く気配がないほどだった。見上げれば、屋根の上に飾られている時計が時を刻んでいる。


「さあ、行こうか」

「はい!」

 リゼットは、はじめて見る大きな建物へと落ち着かない気持ちで入っていった。


 役所の中には広い空間が広がっている。

 リゼットは、きょろきょろと辺りを見渡して様子をうかがった。

 入り口近くにある柱の横には、茶色いストライプが入った襟のある服装に身を包む男性が立っている。同じ服装をしている人がカウンター奥にいるのが見えるので、この役所の制服なのだろう。


 柱の近くに立っていた男は、リゼットたちを見ると近づき

「本日は、どのようなご用事でしょうか」

 直立した姿勢で尋ねてきた。


「使用人の登録に来ました」

「わかりました。あちらの木のマークがあるカウンターになります」

 きれいに指をそろえた左の手のひらで指し示された方向にあるカウンターには、確かに木のマークが刻まれていた。他のカウンターには月のマークや花のマークなどもある。案内するために刻んでいるのだろう。


「ありがとうございます」

 ノーランはお礼を述べると、リゼットを見てから歩きだした。置かれている長椅子の間を通り、木のマークのカウンター前に立つ。


「使用人の登録に来ました、ノーランです」

「ノーラン様ですね。それでは、こちらの用紙に記載をお願いします。右手側に記載場所がありますので、そちらでお願いします。お名前を呼びましたら、書類をお持ちください」


 用紙を受け取り、円形のテーブルが複数ある場所へと向かった。大人の男性が立って書くのには少し低いぐらいの高さのテーブルで、リゼットが文字を書くには少しつらそうである。


「僕が代わりに書いておくよ」

 そう言ってペンを走らせてから、ノーランは用紙に書いた名前をリゼットに見せた。

「これで良かったかな?」

「はい。合っています」

 リゼットがうなずくとノーランもうなずき、次の項目へ目を移した。

「年齢はいくつかな?」

「13歳です」

「13歳と……」


 記載してから、リゼットの方を見る。

「もしかして、次の成人の議で成人かい?」

「はい。それがどうかしましたか?」

 成人になると何かまずいのだろうかと、リゼットは眉を下げた。

「いや……もう少し下の年齢だと思っていたから、びっくりしただけだよ」

「私、背が低いですからね……よく言われます」

「変なことを言ってすまなかったね」

 眉を下げたまま笑うリゼットに、ノーランは謝罪を述べた。その謝罪にリゼットが首を横に振って気にしていないと主張するのを見てから、ノーランは再び用紙にペンを走らせた。今度はリゼットに尋ねるような項目ではないのだろう。黙々と書き切ると用紙を持ち上げた。


「よし。では、座って待とうか」

「はい」

 いくつも並ぶ長椅子のうち、もっとも木のマークのカウンターに近い椅子へ2人で腰掛けた。待っている間、リゼットは色んな名前の人が呼ばれたり何か書くのを興味深そうに眺めていた。ノーランはそんなリゼットを時折見ていたが、基本的にはカウンターの方へ顔を向けていた。


「ノーラン様」

 しばらく待っていると、順番が回ってきた。用紙を差し出すと、職員はそれに目を通していく。


「使用人の出身地と父親の名がありませんが……」

「はい。彼女は孤児なのです」

「なるほど。わかりました」

 うなずくと、職員は書類へ孤児と記載した。


「では、成人の儀には、こちらの用紙をお持ちください」

 そう言うと、手のひらへ収まるサイズの紙に数字が大きく書かれた用紙を差し出してきた。この番号はノーランが書いた書類の右下に書かれていたものである。


「成人の儀の後、個人登録が行われた際に使用人登録と紐付けるために使用します。忘れずにお持ちください。忘れた場合には改めて役所に来ていただく必要がございます」

「わかりました」

「それでは、手続きは以上となります」


 ノーランが小さな紙を受け取り、リゼットの使用人登録は完了した。これで、リゼットが今後ノーランの家で働くことが正式なものとなったのである。村で過ごしていた時とはまったく違う人生が動き出すのだ。

 本当に使用人として登録して良かったのだろうかと不安な気持ちがこみ上げてきたリゼットは、胸辺りの服を握り締めた。



 帰宅するとすぐにノーランは仕事へと向かっていなくなった。

「リゼットは、もう成人だったのね」

 ノーランを見送った後に聞こえてきたシャネルのつぶやくような問いかけにリゼットはうなずく。

「午前中は学校にと思っていたのだけれど、この時期の学校なら必要なさそうね」

 確かに最近の学校でのリゼットは読書を推奨されたのみで、とくにすることはなかった。哲学とかの本はつまらなくて、聖書物語や村の伝承がまとめられた本など物語的な本ばかりを読んでいたものだ。日が暮れる頃に帰宅するのは手伝いが面倒で友人たちと遊んでから帰路についていたからだった。


「はい。最近は読書ばかりしていました」

「そうよね。じゃあ、午前中の掃除から一緒にできるわね。朝の仕事はその時に説明するとして……今日は昼食をとったら、窓拭きをしましょうか。料理人とのあいさつもしないとダメね」

 考えを整理するように話しながらシャネルは歩き出す。その横をリゼットは早歩きで付いていく。

 2人が建物の中へ入るとノーランの家の扉が閉じた。こうしてリゼットの新しい日常がはじまったのである。

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