第2話 目覚め

 リゼットが目を開くと、見知らぬ世界が広がっていた。穴どころか汚れ一つないきれいな白い天井に薄い緑色の上品な壁。ゆったりと揺れるカーテンは白と表現するには薄茶色に近くつややかであった。窓は開いており、柔らかな風が舞い込んでくる。


「目が覚めたのね」

 落ち着いた女の声がして、リゼットは横を向いた。そこには空のように青く長いスカートの上に白いエプロンをした女が立っていた。顔のしわが年齢を感じさせるが、上品な雰囲気があった。ただ、無表情で冷たい印象を受ける。

 リゼットは緊張しながら口を開いた。


「は、はい。あの……ここは、その、どこですか?」

 不安に緑色の瞳を揺らしながら体を起こしたリゼットの質問に、青い目を細めると

「ここはノーラン様の自宅よ」

 リゼットにとっては何の答えにもならないような答えを返してきた。知らない人の家であるということ以外何もわからない。


 リゼットが、ここはどこの街なのかと改めて尋ねる前に

「ノーラン様を呼んでくるわね」

 と言い残し、女はゆったりとした足取りで部屋を出ていった。

 バタンと扉が閉まると、外からは誰かの笑い声が聞こえてくる。平和で平凡な時間が流れているようで、リゼットはすべてが夢だったのではと思いたくなった。しかし、苦しむ父の姿も、近づいてくる魔人たちの姿もはっきりと覚えている。全身の、とくに足の痛みが強いのは、必死に走った記憶が現実だと告げていた。ただ、橋の下で男たちが立ち去った後からの記憶がまったくない。


 ぎゅっと右手で左の袖を握り締めうつむいていると、ギイッと再び扉を開く音がした。扉に視線を移すと

「目が覚めて良かったよ」

 穏やかで落ち着く声を響かせる男が、先ほどの女と共に部屋に入ってきた。男は、よれのない上質な衣を身にまとっていた。声と同じく表情も穏やかなもので、話しかけやすい雰囲気がある。そのおかげでリゼットは素直に質問することができた。

「あの、私はどうしてここにいるのですか? その、私、記憶がないのです……」

 リゼットは、男の灰色の瞳を見つめながら尋ねた。


「そう、なんだね……君は川の近くで倒れていたんだよ。聖地サンビタリアから流れる川だったから、神さまに守られて助かったのかもしれないね」

 そう答えながら、男は椅子をベッド脇に持ってくると腰掛けた。

「さて。どこから来たのかわかるかい? ご両親は? 記憶がないと言っていたが……」

 その質問に、リゼットは父親を思い出した。皮膚が黒く変異していく中で逃げるように言った父親の姿を。


 うつむき答えられずにいるリゼットが、それらの答えを返す記憶を持ち合わせていないと思ったのかもしれない。

「覚えていないなら、言わなくても大丈夫だよ。じゃあ、これからの話をしようか」

 男は話題を変えた。

「はい。あ、えっと、ノーラン様で合ってますか?」

「ああ。ちゃんと名乗っていなかったね。僕はベル・ドゥ・ジューの街ランメルトの息子ノーランだ」

「私は……」


 名乗り返そうとしてリゼットはためらった。

 自分がどれほど眠っていて、村の異変がどの程度伝わっているのかがわからないのだ。異変が伝わっていたとしたら、正式な名乗りをすることで魔人になった者がいる村の出身だと伝えることになる。それが大丈夫なのかがリゼットにはわからなかった。


 加えて、ベル・ドゥ・ジューの街はリゼットのいたカメリア村から馬で8時間は掛かるような都会である。それだけの距離を生きて流れ着くなどリゼット自身ですらも普通ではないと思うのだから、他人が聞けば魔人が人間の姿を装っているのだと思ってもおかしくはないだろう。


 目をさまよわせてから

「私は、リゼットです」

 正式な名乗りを避け、街の名前も父の名前も言わず自分の名前だけを伝えた。


「そう……。リゼット、もし行く場所がないのならばなのだけれども。僕は君がこの家に暮らしても良いと思っているんだ」

「それは……」

 行く場所がないのかどうか、リゼットにはわからなかった。父親が魔人になったのは見たが、他の家族は見ていないからだ。

 もしかしたら生きているかもしれない。でも、あれだけの人数が魔人になっている状態で家族は無事だと楽観的に思うこともできない。そもそも魔人になっている可能性も高いのだ。

 リゼットは、答えることができないまま布団を強く握り締めた。


「住み込みの使用人として遇しようと思っているのだけれども、どうだい? 養女にとも考えたのだけれども、これでも社長をしていてね。見知らぬ娘を世継ぎにするわけにはいかないだろうと言われてしまったからね」

 ノーランの提案は、これ以上ないもののようにリゼットには思えた。家もなく親もわからないなどという身元のわからない見知らぬ娘を使用人として雇ってくれて、生活の場も与えてくれるというのだ。

 住み込みとして働きながら情報とお金を得て、村に帰ろう。そして家族の無事を確認しよう。そうリゼットは考えた。


「本当にいいのですか?」

「もちろんだよ。問題なければ明日にでも使用人登録に行こうか」

「はい。お願いします」

 リゼットの素直なうなずきに、ノーランは微笑ほほえんだ。

「僕はこれから会社に行くからね。今日はゆっくり過ごすといいよ。何かあったら、そこのシャネルに言いなさい」

 目覚めた時近くにいた女の名前はシャネルというらしい。彼女は紹介に合わせてにこりと笑顔を作った。

「明日からは一緒に働くのだから仲良くするんだよ」

 そう言いながらノーランは立ち上がると扉に向かって静かに歩きだし、シャネルが開けた扉の向こう側に消えていった。


 扉が閉まると、部屋にはリゼットだけになった。

 することもなく、リゼットは部屋をきょろきょろと見渡した。ベッド横のサイドテーブルに水差しとコップが置かれている。そこでようやく喉が渇いていたことに気が付いたリゼットは、そっとベッドから降りようと体に力を入れた。


「っ!」

 痛みが走り、息が詰まる。筋肉痛の痛みだが、ここまでひどい筋肉痛は、リゼットにとってはじめてだった。軽く深呼吸すると、恐る恐る力を入れてベッドを這い出ていく。動くたびに痛むが喉の渇きを耐えるのもつらく、リゼットは痛みに耐えながら水差しを手にした。

 手が少し震えているが、どうにかコップへ注いだ水を喉へと流し込んでいく。

 喉が潤い、ほっと一息ついたところでシャネルが戻ってきた。食べ物と新聞が置かれたトレーを持っている。


「起き上がって大丈夫なの?」

「筋肉痛がひどいですが、大丈夫です」

「思ったより元気そうで良かったわ」

 トレーを部屋の中央に置かれているテーブルに置くと、肩に届かないぐらいの柔らかいウエーブがかった髪を耳にかけながらシャネルは言った。良かったわと言いつつも表情は変わっておらず、心から良かったと思っている雰囲気ではなかった。さきほどの笑顔が幻だったのではと疑いたくなるほどである。


「素性のわからない怪しい子を雇うなどノーラン様も何を考えていらっしゃるのかしらね。こんな高待遇普通はないのよ。よくよく感謝しなさい」

「はい。わかりました」

 威圧的な雰囲気に、リゼットは真剣な表情でうなずいた。


 それを見てからシャネルは再び口を開く。

「今日はノーラン様の言うとおりゆっくり休むようにといっても、暇でしょう?」

「はい」

 有無を言わせない物言いにリゼットが素直にうなずくと、トレーに置かれていた新聞を差し出された。


「文字は読めるかしら?」

「はい。読めます。その新聞は……?」

 なぜ新聞が差し出されたのかわからず、首をかしげながら受け取った。

「1日何もせずお布団にいるのも暇でしょう? せっかくだから、ノーラン様が発行した新聞を読んでいるといいわ」

「ありがとうございます」

 ノーランが社長をしているというのは、新聞を発行する会社のようであった。


「食事も持ってきたから食べられるようであればどうぞ。仕事があるから付きっきりではいられないけれど、何か困ったことがあればサイドテーブルの呼び鈴を使って構わないわ」

「はい」

 リゼットはうなずいたが、呼び鈴を使う気はまったくない。明確に敵視されている状況で呼び鈴を使うほどリゼットは図太くなかった。


「何か、質問しておきたいことはないかしら?」

 リゼットは頬を指先で押しつぶすようにしながら考え、手を顔から離すとシャネルに視線を合わせた。

「トイレはどこにありますか?」

「大事なことを忘れてたわね。階段を下りて右手奥にあるわ」

「ありがとうございます」

 リゼットがお礼だけを述べ質問を続ける様子がないのを見ると、シャネルは

「他には質問なさそうね? ゆっくりおやすみなさい」

 そう言い残して部屋を出ていった。


 取り残されたリゼットは、椅子に座ると新聞を置き食事をのぞき込んだ。目玉焼きが乗ったトーストとウインナー。それにスープだ。落ち着く香りに安心してスープを口に運ぶ。柔らかい味が喉を流れ、その暖かさがリゼットの体全体に行き渡っていく。


 ぽたりと涙があふれ出した。


 一度出た涙は止まらない。しゃくり上げ、震える手でスープを机に置くと泣き続けた。スープから手を離す余裕もなく、うつむき、ただただ泣いていた。

 リゼットが思い浮かべるのは、けんかするように争い食べる食事だった。あっという間に兄たちの口に消えていく様子に焦りながら必死に肉をかき込むような食事は、今思い起こせばとても幸せなものであった。落ち着いて食べなさいとたしなめる母も、元気なのはいいことだと笑う父も、兄たちにあきれながらも自分の食事はちゃっかり確保している姉も、それらを見守る祖母も、無事に再会できる保証などない。


 リゼットは、村に、家に、帰りたくてたまらなくなった。

 上質な布団に包まれるよりも、隙間風で寒くたって構わないから誰かのぬくもりを感じながら眠りたい。みんながいて笑っている家に帰りたい。水くみだって、雑草抜きだって、刈り取りだって、なんだって、もう嫌がらないから早く帰りたい。

 そんな風にリゼットが願う些細ささいな日常は、いくら泣いても簡単に叶うような願いではなくなっていた。それでも、ずっとずっと泣いていた。


 どれほどの間泣いていたのか。涙が出なくなってしまって、ようやく顔を上げた。冷え切ったパンと目玉焼きを真っ赤になってしまった目でぼんやりと見る。力ない表情のまま口に詰め込むと、スープでそれらを飲み込んだ。味を感じられないような食事を終わらせると、リゼットは新聞をつかんでベッドへと潜り込んだ。


 しばらく新聞を読むことなく眺めていたが、何かに気が付いて最新の新聞をベッドの上に開き、四つんばいになって読みはじめる。

 そこには、リゼットの暮らしていたカメリア村が載っていた。

 多くの住人が魔人になったとの報告があり、聖サンビタリア保安隊が出動し調査中であるというものだった。魔人は近隣の村へも出没しており、魔人によるけが人も出ているとのことだ。


 あの夜に聞こえた男たちの声は聖サンビタリア保安隊のものだったらしい。

 やはり、出身地を名乗らなかったのは正解だったと安堵すると同時に、不安が襲ってきた。魔人になったリゼットの父親は保安隊の誰かの手で殺されたのではないかと考えたのだ。

 不安に耐えきれず、リゼットはぎゅっと胸をつかんで枕の上へ倒れ込むと、涙を絞り出すようにして再び泣いた。

「パパ……パパ……」

 リゼットの声に答える人は誰もいない。

 リゼットは、本当にこれ以上は涙が出ない状態までしゃくり上げる。

 そして、いつしか眠りについていた。

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